カグの樹の脚

つばめ綺譚社の紺堂カヤの小説『カグの樹の脚』を連載形式で順次公開してゆきます。

連載第八回 調査開始

 義足ジャンパーだというこの小柄な少女をどう扱って良いか、エルマーにはわからなかった。少女、にしか見えぬが同い年だという彼女は、見た目に反してしっかりとした物言いをする上、エルマーの差別的な発言にも怯まず、また激怒することもなく理性的な反論をしてきた。
 そう、あの差別的な発言をしてしまったことに関しては、激しく後悔がある。溜息だけはこらえて、エルマーは眉をきつく寄せた。あの価値基準が自分の根底にあるのだということを、エルマーは認めたくなかった。けれども、あの発言はそれを裏付けてしまっていた。
「ああ、随分明るくなってきたねえ」
 そう言うモモの首の動きにつられて、エルマーも東の空を見た。鮮やかに赤かった色が薄くぼやけて、空全体が明るくなってきている。
「気候は穏やかな頃みたいね。よかったー、ここのところ、暑いとこばっかりだったからさあ」
 のんびりとそんなことを言うモモの横顔は穏やかだ。どう考えても好意的ではない態度を取り続けているエルマーに対して、こうも鷹揚に構えていられるというのは一体どういうわけなのだろうと思う。自分がひどく子どもっぽく感じられてしまって、エルマーは余計にイライラした。
「さて。そろそろ北東地方に入るわけだけど、どこから調査に入る?」
「そうだな……」
 雑談にはほとんど返答をしなかったが、任務の話となればせざるを得ない。調査任務が初めてなのは、エルマーとて同じだった。正直なところ、方法についての自信はない。だが、調査、というもののセオリーに則ればいいのではないかと考えていた。
「図書館のような施設があれば、そこからだな。新聞を調べる」
「ははあ、新聞すか」
「……不満なのか?」
「いーや」
 そのセリフが本音なのかどうか、エルマーにはわからなかったが、不満ではないにしろ、モモの考えは違うものであったらしいことはわかった。
「……お前は普段、どうしてるんだ、ハンター任務のときは」
「あたし?あたしは基本、聞きこみかなー」
「聞きこみ?直接、住民に、か?」
「そうだけど?」
 こともなげに言うモモの顔を、エルマーはしげしげと眺めた。
「え、そんなに驚くこと?」
「いや……」
 エルマーは視線をそらして言葉を濁した。
 わかってはいたことであった。サンスーシ社が依頼を受ける任務と、フック社のそれとはまったく、性質の異なるものだということは。
「じゃ、最初図書館を探すのね。関係性の設定はどうしようか……、兄妹、が無難かね」
「関係性の設定?」
「そ。君ら何者、って訊かれたとき、その場で嘘をでっちあげるのはリスクが高いでしょ、ふたりだと余計に」
「ああ……」
 なるほど、と言いそうになったのを飲み込んだ。モモの方が上手であると、認めてしまうようなものだ。
「そ、それにしたって、兄妹というのはどうなんだ。同い年だろう」
「自分で言うのもなんだけど、あたしの方が年下に見えるでしょ?ご不満なら、恋人とかにしておく?」
「……兄妹でいい」
 顔を合わせた日と同じだ。それを選ぶしかないのに、それはわかっているのに、無駄な反論をしてしまう。結局のところ、モモの方が上手であるというのは、エルマーが認めるも認めないもなく事実なのだ。
 またも渋面を作ったエルマーに、モモはきわめてあっさり、じゃあそれで、と言って、北東地方で一番大きな街の、さらに中心部を目指すことを確認した。
 途中、道端で休憩を取りつつ、第九八球に到着してから二時間ほども歩いただろうか、だんだんと民家が増え、人通りも出てくると、モモは興味深そうにきょろきょろ周りを見回した。街の真ん中に森があるのかねえ、などと言って遠くにこんもりと見える緑を指さしたかと思うと足元の石畳を覗き込んで具合を確かめたりしている。わかりやすくもの珍しそうにしやがって、とエルマーが溜息をついたそのとき、モモが小さなショーウィンドウを構えた店に向かって小走りに駆けて行った。
「お、おい!」
 エルマーが慌ててモモを追うと、彼女はショーウィンドウを熱心に、いや、ショーウィンドウの向こう側の、店内の様子までも目に入れようと覗き込んでいた。女ってやつは、と内心で悪態をつき、肩に手を伸ばすと、モモは触れられる前にサッと身を翻して店から離れた。
「着替える必要性はなさそうかなあ、この格好でも。悪目立ちするってことはなさそう」
 そんなことを言って、すたすた歩いて行く。
「調べてないのか、事前に?」
「基本情報は目を通したよ、もちろん。だけど、こういう種類のことは自分の目で確かめたい性格なんだよね、ごめんね時間取らせて」
 ごめんね、と言う割には申し訳ないと思っているようなふうでもなく、モモは軽く肩をすくめた。その様子に、エルマーはなぜだかひどく打ちのめされたような気分になって、けれどもそれを気取られるのだけは避けたくて、黙ってまた隣を歩いた。
 基本情報に記載があったが、第九八球ホウル国の文化レベルはマイナス五十。つまり、五十年前のハブと同じレベルだということだ。電子機器がほぼない時代のハブだと考えておけばいい。……と、思っていたのだが、そう頭で理解しているのと、実際に降り立ってみるのとではたいぶ印象に差があるようだった。
 街の建物は、どれも同じ材質を使用しているのか、一様に白っぽい壁を見せて並んでいた。整備された街道の街路樹だけでなく、家と家の間にも草木が多く、壁の白と枝葉の緑のコントラストは非常に印象的なものとしてエルマーの目に映った。その中でも、森でもあるのか、とモモが言ったように、街のほぼ中心部と思われる位置に見えるこんもりとした緑の盛り上がりは相当目立っていた。丘か山のようにも見えたが、それにしては盛り上がり方が急すぎるように思えた。
 図書館へは、特に迷うこともなく辿り着くことができた。街道のいたるところに黄色い案内板があったからだ。緑と白が彩る街の景観を、まるでぶち壊そうとしているかのような派手さだったのには、美的感覚に自信のないエルマーでさえ閉口したが、そのおかげで迷わなかったのだから文句は言えまい。
図書館は石造りの立派な建物で、よそ者を寄せ付けぬ雰囲気があった。もちろんそれに気圧されるわけにはいかない。図書館の向かいには、同じく石造りの大きな建物があり、どうやらそれがこの地方の庁舎のようだった。エルマーとモモは、その庁舎にちらりと視線を向けてから、図書館へ入った。
 広々とした図書館は、開館したばかりの時間帯だからだろうか、利用者は少なく、その誰もが己の手元の書物に夢中であった。カウンターにいる職員も、特にエルマーとモモの方を窺う様子はない。他人に構わぬ都市気質のところでよかった、と思った。
 

 〝トルネリコ祭、今年も盛大に〟
 〝ローダーの出荷ピーク〟
 〝国王陛下、隣国大使と会談〟


 一面に踊るこれらの見出しは、ここ十日間ほどの新聞のものだった。そう簡単に鍵となりそうなものが見つかると思っていたわけではないが、鍵の手がかり、くらいのものは拾い上げたいところだ。とりあえず、国全体の事柄ではあるが〝統治状況〟に関係がありそうなのは国王と大使の会談の記事であろうか、とナナメ読みをして、ふと、向かいで同じく新聞を手にするモモを見た。少し唇を突き出すふうにして。左の人差し指をこめかみにあてている。
 新聞記事を構成しているのは、単語や文法どころか、文字からしてハブで慣れ親しんだものとは似ても似つかない。ジャンパーの登録をしたときに体内に埋め込まれた自動翻訳機のおかげで読むにも書くにも話すにも、困ったことはないが。義足ジャンパーということは、モモはハブ生まれでない可能性が高い。実は最初から二人とも別々の言語で会話しているのだ、ということを考えると、妙に不思議な気がした。
「ねえねえ」
 その、おそらくはエルマーの母語とは違う言語で、モモが呼んだ。
「これ」
 モモが示して見せたのは、トルネリコ祭という北東地方で毎年行われている祭についての記事だった。
「祭がどうかしたのか」
「うん」
 モモは記事の後半をとんとん、と指で叩いた。


増税はならぬ、というトルネリコの決定を無視せんとする議会派による妨害行為が懸念されていたが、目立った衝突は見られず、祭は無事終了した』


 増税、衝突、という言葉に目を見張る。
「トルネリコという支配者に、反対している勢力がある、ということか」
 モモが神妙な顔つきでうなずいてから、ただ、とため息のように言った。
「ただ、何だ」
「何度か読んでみたけど、どう考えてもその支配者っていうトルネリコというのは、樹木の名前なんだなー」
 紙面に乗せられたままだったモモの指が、するりと滑って文章の隣の写真を示した。樹齢何百年、と思われる巨大な樹木の姿だった。
「どういう、ことだ……?」
「それを調べるのが、あたしたちのお仕事ってことかなー」
「……そんなことはわかっている」
 モモの軽い調子が癇に障って、ムッとした声が出た。
「何怒ってんのー?」
 エルマーは黙って新聞を棚に戻すと立ち上がった。まずはその樹とやらを見に行くべきだろう。いや、先に議会派とやらか、と図書館を出てすぐ、向かいの庁舎を見上げる。と、見知った顔がふたつ、そこから現れた。エルマーの体が、反射的に固まる。
「おやぁ?坊ちゃんじゃないですか」
 巨躯と呼んで差し支えない大きさの男が笑う。その隣で紫の髪の女性が目を見張っていた。
「リュー……いえ、エルマー。あなた方もここだったのね」
「ちょっと待ってよエルマー、ってあ、ポタラ!とロベン」
 遅れて出て来たモモが、エルマーの隣でふたりと顔を合わせた。
「へえ?それが坊ちゃんのパートナーですか」
 ロベンがニヤリとした。
「よく平気ですなあ、さすが名門といったところですか、いやー、心が広い。〝ツギハギ〟と組まされても平然としていられるとはね」
「ロベン」
 ポタラが窘めるように名を呼ぶが、ロベンはなおも明らかな嘲りをこめた声でエルマーに話しかけた。
「俺ならとても我慢できませんね。体内の純血が本能で拒否をしますよ。坊ちゃんはしないんですか?……ああ、流れてる血が違えば、そりゃあしないか」
「っ!!」
「ロベン!!」
 エルマーが鋭くロベンを睨み上げたのと、ポタラが叫ぶように呼んだのは、ほぼ同時だった。
 怒りがカッと頭に上っていたが、血の気が引くような感覚もあり、エルマーは自分が今どんな顔色でいるのかわからなかった。睫毛の上で蛍が飛び交っているように、目の前がチカチカした。
「ああ、凄い目ですなあ。名門イエローストーン家の坊ちゃんでも、そんな目ができるんですなあ。それも血脈のなせる業なんですか?」
「ロベン!いい加減になさい!」
 ポタラがロベンの正面へ立ちふさがって怒鳴った。彼女が立ちふさがってもロベンの顔は少しも隠れず、ロベンは切れ長の眼ではっきりと微笑んで肩をすくめて見せた。
「エルマー」
 すぐ隣で声がした。いつからそうしていたのだろうか、モモがエルマーを見上げていた。穏やかに、エルマーをエルマー、と呼ぶ顔には、不安や心配のようなものも、焦燥や悲哀のようなものも浮かんでおらず、ただ静かだった。
「仕事しよう」
「……ああ」
 ゆっくりと息を吐いて、エルマーはうなずいた。睫毛の先の蛍は飛び去っていた。
「じゃあね、ポタラ
 モモが笑顔で手を振って、エルマーはふたりの方を見ることもなく、庁舎の前を去った。
「トルネリコはもう少し東らしいよ。っていうか、きっと、あそこにずっと見えてる森だよね」
「お前なんで知ってんだそんなこと」
「図書館で調べて来たからに決まってんでしょ?エルマー、さっさと出てっちゃうんだもん。結構せっかちなんだね」
 面白そうに笑うのがまた癇に障るが、変なふうに気遣われるよりは何倍もマシというものだった。自然すぎていっそ不自然なほどにモモは変わらぬ態度で接してくる。エルマーの素性を知ったのは、おそらくは今のことであるはずなのに。
 お前何も訊かないのか、などとエルマーの方から口走ってしまいそうで、唇を軽く噛んだ。

連載第七回 ターミナル

『第98球における調査任務 ホウル国北東地方の基本情報更新のため、統治状況を中心に再調査のこと。任務着任は本日より三日以内に』


 任務内容を3回読んでから、モモは通信端末に第98球の基本情報を呼び出した。これが、モモたちの調査任務の結果、書き直される可能性があるということだ。
「第98球……、基本原理球。恒星ひとつ。衛星みっつ、生命が確認されているのはその内ひとつのみ……、5か国を有し、言語は同一、か。とりあえず、基本原理球ってのは相当安心材料だなー……」
 自室のベッドに寝転んで、モモは呟いた。基本原理でない球はそれだけで任務の難易度が上がる。空が黄色だったり緑だったり、というのはまだいいとして、重力に大きく差がある場合が一番困る。歩行だけで一苦労だ。
 あとはホウル国の文化基準などの情報を中心に、一通り目を通す。決して少なくはない分量だが、第12球や第108球に比べれば可愛いものだ。
 任務着任は三日以内に、とあったけれど、特に三日もかけてすべき準備もないので、仮眠を取ったらすぐ出発することにしていた。もちろんエルマーと相談しての決定なわけだけれど、すべて通信端末を用いて行ったため、顔をあわせてはいない。面と向かって話せばよい関係に発展したのではないか、なんてことは少しも思っていなかったので、特にそれに関して不満はない。
 出発ターミナルに集合すると決めた時間まで、あと30分というところで、モモは起き上がった。ベッドの上に投げ出していたベルトを腰に巻いて、くくりつけてあるポーチの中身を確かめる。最後にブーツを履きながら、特に腹は立たないな、とモモは思った。エルマーのことである。不信感を持たれた状態で仕事をするのはやりにくいに違いなく不安ではあるけれど、義足ジャンパーだと蔑まれたことに対する怒りは、ほとんどなかった。
 義足であることを誰よりも疎んでいるのは、自分自身なのかもしれない、という思いがモモの胸をよぎる。
「ごめんね」
 モモはブーツの上から義足をなでて、部屋を出た。
 部屋を出てすぐのところで、ピーターの姿を見つけ、笑顔になる。
「今、お前の部屋に行こうとしていたところだよ。もしかして、もう出発するのか?」
「そうなの。まあ、伸ばす理由もないから。何かご用事でした?」
 モモは、相手がピーターだけだと少し物言いが砕ける。嬉しさを隠そうともせず、満面の笑みでピーターを見上げた。
「ああ………、今からターミナル?」
「うん」
 歩きながら話そう、とピーターはモモと共にターミナルへ足を向けた。
「第98球のことを、俺が知っている限りで教えておこうと思って」
「助かりますー!」
「基本情報は?」
「一通り読んだよ」
「うん、それで何か気になった点は?」
「んー、任務内容にはホウル国北東地方の〝再調査〟とあった……、それなのに、その、少なくとも一度はあったはずの調査の内容が基本情報に反映されているようには思えなくて……。第98球はそんなに新しい球でもなかったはずだし」
「そう、まさしくそこなんだ」
 ピーターは満足そうにした。
「前の調査は、ホウル国全体を対象範囲にしたもので、北東地方に関しては〝どうやらこの地方だけ違う支配系統を持っているらしい〟というところまでしかわからなかった。不確定すぎたんで、文書化できなかったんだよ。それで今回、北東地方のみをみっちり調査してもらうことになってるわけさ」
「ははあ、なるほど。じゃ、これクライアントからの依頼ではなくてジャンパーのための資料の調査なんですね?」
「それはナイショ」
 人差し指をそっと唇にあてる仕草をごく自然にしたピーターを見て、モモは頭を抱えた。この歳の男性がそんなお茶目なことするとか反則すぎる。
「そこはハンター任務と同じだよ、モモ。依頼先についてはジャンパーには教えられない。知っているだろう?」
「あ、はい、知ってます、知ってますけどもね……」
 モモが苦笑したとき、ターミナルの門が見えてきた。
「ターミナル、っていうか滑走路なんだけどねえ」
「モモ、それいつもやるよね、ターミナルの名称にケチつけるの」
「ケチつける、って言わないでよピーター兄さん。っていうか、ここまで来ちゃって良かったの?お見送りしてくれるの?」
「ああ、そのつもりだよ。お見送り、というか……、ちょっと心配でもあってね」
「心配?」
「モモ、複数人で跳ぶときの方法、覚えてるかい?」
「え?」
 モモはジャンパーになってからずっと、単独での仕事しかしてきていない。跳ぶときはいつもひとりだ。誰かと跳んだ経験というのは、過去に。
「……あ」
「思い出した?」
「うん。ジャンパーになる前の、教育期間だ。何度か、ピーター兄さんが一緒に跳んでくれた……、ってことは、ええ!?」
「そういうことだ。エルマーも、忘れてたみたいだな、来て良かった」
 ピーターが笑いながら振り返ると、苦しそうにも見えるほど眉をしかめたエルマーがそこにいた。モモとピーターの会話は、ある程度聞こえていたらしい。
「……お気遣いに感謝します。コースの申請は」
 エルマーは渋面のままピーターに頭を下げて、モモに問う。まだ、と首を横に振ると黙ってターミナルの門を潜って行ってしまった。
「すぐ使えるらしい。赤コースだ」
 モモたちがターミナルに入ると、すでにコース申請を済ませたらしいエルマーが赤いランプが光るコースを指さした。
「はいよ」
 モモはうなずくと、ピーターに手を振ってコースに向かう。助走用の道が何本も設けられたこのターミナルは、3社合同で使用している。今日は出発のジャンパーが少なかったのだろうか、いつもより空いていた。助走路の区切りと距離を示す役目を担うランプの前にふたり横並びで立つと、モモはエルマーに左手を差し出した。いまだ渋面のままのエルマーに苦笑してしまう。
「そう嫌そうな顔されるとさすがに傷つくんですけど?バイ菌なんてついてないよ」
「もともとこういう顔だ」
 そうは言い返しつつもさすがに少しバツが悪そうに、エルマーはモモの手を取った。
「歩幅は」
「目盛りみっつくらい。広げようか?」
「いや、いい。そっちに合わせる」
 等間隔に並ぶ赤いランプを横目で確認してから、モモはうなずいた。
「行くぞ」
「うん」
「座標、第98球。3、2、1!」
 呼吸を合わせ、ふたりは駆け出した。
 視線を、足元から上へ移動させていく。体が浮き上がって、桔梗色の空が近くなった。
 目の前が、ぐうん、と開けた。
 すわっとした、いつもの浮遊感。風が体を通り抜けてゆく感じ。
 この感覚が好きだから、モモはジャンパーをやっていられる、と思う。
 何か見えたわけではないのに、手を伸ばそうとしてしまって、気がついた。今日は、手を繋いでいる相手がいる。
 それに気がついた途端に、その手をぐん、と引かれたように下降が始まった。
 桔梗色だった空が、少しずつ橙色、いや紅に変わって、ああ夕焼け、と思った瞬間に、両脚が地面をとらえた。着地のときによろめくようなことがなくなったのは、いつ頃からかな、なんて考えが浮かんで、その答えが出る前に消えた。放牧場だろうか、青々と草の生い茂る、人影も民家も見当たらないだだっ広いところへ降り立っていた。
「おい、お前跳ぶとき気持ち持っていかれすぎじゃないか」
「え、そう?いつもこんな感じだけど」
 エルマーはまたあの眉をしかめた渋面でモモを眺めると、まあいい、と呟いてコンパスをぱかりと開いた。
「第98球、ホウル国。……北東地方より、やや南寄りのところに降りてしまったか。まあ許容範囲の誤差だな」
「うっわあ、予想以上の正確さ……、国までドンピシャかあ。さすが誤差ゼロの男」
「……誤差の話、聞いてたのか」
「え、うん、まあ」
 チッ、と舌打ちされてモモは戸惑った。素直に感心したつもりだったのだが、地雷だっただろうか。モモの心配をよそに、エルマーはサッと周囲に目を走らせて道を見つけたようだった。
「移動手段を調達するより歩いた方が早い距離だな。行くぞ」
「あ、うん、でも」
 でももうすぐ夜じゃ、と言いかけて、モモは自分の勘違いを悟った。夕焼けに見えていたのは朝焼けで、今から夜が明けるところなのだ。
「どうした」
「えーっと……、手……」
 自分の勘違いを明かす代わりに、着地してからも繋いだままであった手を示すと、エルマーは必要以上に勢いよく、それを振りほどいた。だからバイ菌はついてないって、と苦笑しつつ、モモは先に歩き出したエルマーの背を追った。
「ねえねえ」
 どうせ歩いている間に雑談をする気などないのだろうと、モモは拒絶を念頭に置いてエルマーに声をかけた。エルマーはちらり、と明らかに意図した見下ろす視線でモモを見た。少し迷うように瞳を動かしてから、小さく、何だ、と返す。無視されなかった、というのは意外であった。
「ジャンパーになって2年、だっけ?これまで跳んだ球でさ、どこでもいいんだけどさ、トクラナ、って言葉聞かなかった?」
「トクラナ?どういう意味だ?」
「いやー、どういう意味なのかは非常に残念なことながら、あたしにもわからないんだけど」
「なんだそれは」
 エルマーがふん、と鼻を鳴らして前を見る。モモも軽く笑って、エルマーから視線を外した。
「まあ、ちょっと何か思い当たることとか、思い出したらさ、教えてよ」
「任務に関係あることか?」
「ううん、完全に個人的なこと」
 ポーチからキャラメルを取り出して、エルマーにすすめてみたが、無言で断られた。
「……ピーター殿の、妹、なのか?」
「へ?」
 前を向いたまま、ぼそりと問われて、モモは一瞬意味がわからなかったが、ああ、と思い当たって笑った。エルマーは、モモがピーターを兄さん、と呼んでいたのを聞いたのだろう。
「違うよ。血のつながりはないの。兄貴分、っていう意味」
「……そうか」
 それきり、エルマーは口を開かなかったけれど、モモはなんとなく、抱えていた不安が減ったように感じていた。
 キャラメルが、甘くてやわく、溶けていた。

連載第六回 パートナー

 社長室へ出向くべき時間にはまだ余裕があったため、モモは食事をするべく社屋を出て繁華街へ向かった。チキンシチューの味が気に入って、よく足を向けるようになった『小鹿亭』に入る。店内は、真っ昼間だというのに酒を煽って盛り上がる面々で賑わっていた。ほぼすべてのジャンパーが拠点にしているハブにおいて、昼と夜の区別などはあってないようなものだ。
 小鹿亭のマスターは、白い口髭をいつもきちんと整えている。モモの姿を見つけると愛想よく手を振って、カウンターの一席を案内してくれた。
「やあ、モモいらっしゃい。何にするね?」
「チキンシチューとバケットのスライスを」
「それから冷たいレモネードをふたつ」
 すぐ後ろから軽やかな声が割り込んで来て、モモは少々驚いた。ポタラだ。小麦色の肌を持ち、深紫の髪を特徴的な輪っかの形に結っているポタラは、青い瞳で穏やかに微笑んだ。
「久しぶりね、モモ」
「うん、そうだね!さっき、クイーンのところでポタラの話を聞いたところだったんだよ」
「私の話?ロベンに関する愚痴じゃなくて?」
「それだ」
 くすくすと笑いあっているところに、マスターがレモネードのグラスを出してくれる。陽だまりのような色のレモネードは小鹿亭の特製品だ。
「そういえば、そのロベンは?ひとりでいるなんて珍しいね?」
「そんなに四六時中いっしょにいないわ、仕事上のパートナーなんだもの。……乾杯しましょ」
 ポタラがグラスを持ち上げ、モモもそれにならってキン、と軽く合わせた。
「お酒でも飲みたいところなんだけど、あなたこれからウィリアム社長に会うんでしょう?」
「よく御存じで」
 ウィリアム、はフック社の社長の名前である。
「そのことで、モモにお願いがあるの」
「へ?」
 シチューとバケットを受け取りながら、モモはポタラの憂い顔をぽかんと眺めた。社長に呼び出された理由についてはモモ自身もまだ知らないのである。
「ウィリアム社長から通達されればわかることだけど……、ああ、どうぞ食べながら聞いてね」
 ご丁寧にそう促されたのに甘えて、モモはバケットのスライスをシチューにひたして食べ始めた。まろやかなのにコクがある風味がたまらない。だが、食べる手はすぐに止まってしまうことになる。
「モモには、パートナーがつけられることになると思うの」
「……は?」
 寝耳に水、な話で、モモはぱちぱちと瞬きをした。
「パートナー、というのはつまり、ポタラとロベンみたいなこと?」
「そう。これまでよりも高度な依頼を任せるおつもりなんでしょうけど……、私がお願いしたいのは、その、モモのパートナーになるであろう人物についてなの」
「はあ」
 食事を再開して、モモは先を促した。
「フック社には入ったばかりだけど、ジャンパー歴は2年くらいになるはずで……、歳は確か私のふたつ下だったかしら」
ポタラのふたつ下なら、あたしと同い年だ。男性ですか、女性ですか」
「男の子よ」
 ここで男性、ではなく、男、でもなく、男の子、と答えるところがポタラらしいな、と思ってモモはすこし微笑んだ。
「その男の子の様子、というか、仕事ぶり、というか……、何か変わったことがあったら私に教えて欲しいの」
「何か、問題のある人物なの?」
「いえ、そういうわけではないんだけど……」
 ポタラは困ったように微笑んで、少し躊躇うふうにしながらも理由を述べた。
「その男の子の、ご両親に頼まれているの。私もお世話になっている方々だから、断れなくて」
「……もしかして、その、あたしのパートナーになるであろう人って、フック社に入る前はそちらに?」
「ええ。サンスーシ社にいたのよ」
 つまり純血のジャンパーということだ。
「それはかなり珍しいことだよね……、なんでまた?というのは、訊かない方がいいのかな」
「訊いてくれても構わないけれど、残念ながら私もよく知らないの。突然、フック社に移ることになったから、とだけ」
 ポタラも困惑しているわけか、とモモはうなずいた。
「……何か変わったところがあれば、でいいのね?」
「ええ、それでいいわ。……ごめんなさいね。どんな人物かまだわからないにせよ、パートナーにスパイまがいのことをしろと言われては良い気持ちじゃないでしょう」
「んー、まあ確かにうきうき引き受けるわけにはいかないけど……、あたしの裁量に任せてくれるってことならわりと気が楽かな」
 だからロベンといっしょに来なかったのか、とモモは察した。あの融通の利かない男の前では、こういう話の持って行き方はできなかったであろう。
「ありがとう、モモ」
 明らかにホッとした様子のポタラに、モモは明るく笑って見せた。ポタラはグラスのレモネードを飲み干すと、マスターに金貨を渡した。
「モモの分も、これで取っておいて」
「えっ」
「いいの、面倒なことを頼むんだからこれくらいさせて。いずれきちんとお礼はするけれど」
 ポタラは辞退しようとしたモモを遮り、私も会社に顔を出さなければならないから、と言って席を立った。本当に育ちがいい人というのは、彼女のような人のことをいうんだろうなあ、なんて感心しつつ、モモはポタラに手を振った。
 シチューを、もう皿は洗う必要がないのではないかと思うほど綺麗にバケットで拭い食べて、モモは小鹿亭を出た。
 来た道を戻って、フック社の社屋の、地下へ入る階段を下りる。フック社の社長室は、ジャンパーでもある社長自らの希望で地下に作られたのである。なんでも、高いところは世界を跳ぶときにいくらでも見られるから、社長室は普段見られない地下がいい、ということらしい。が、最近はそれを後悔していて、社長室を移したいとごねては周囲を困らせているという。
「失礼します。社長、モモです」
「おー、入って入って」
 軽い返答を聞いてから扉を開けると、社長はテーブルを挟んで男と向かい合っていた。
「ピーター兄さん!」
 モモが喜色も隠さず呼ぶと、ピーターは微笑んで手を挙げた。いつ見ても爽やかな笑顔である。黒髪を短く刈り上げ、深い緑のジャケットを着ていた。
「何やってるんですか?」
 テーブルの上には鮮やかなボードが広げられていた。何色かに色分けされたそのボードには、小さな駒がいくつも乗せられていた。
「ドリドリ、ってゲームだ。第52球に行ってた奴が土産でくれてね。……ウィル、もう諦めろ。君の負けだ」
「……ちきしょう。あとでもう一勝負だからな」
 ピーターは笑って、いいとも、と言ってからモモの方へ身を乗り出して耳打ちするように囁いた。
「チェスみたいなものさ」
 モモが納得してうなずくと、社長が立ち上がった。彫りが深く精悍な顔つきは、ひと目であらゆる人生経験を積んできたのだとわかるものだ。けれど、笑顔は驚くほど無邪気でいつまでも少年のようである。
「ちょっと久しぶりだな、モモ!元気か?」
「はい、おかげさまで」
「なんだよー、おかげさまで、なんてオトナな挨拶ができるようになっちまってよー」
「そこ嘆かないで褒めてあげろよ」
 ピーターがボードゲームを片付けながら苦笑している。
「褒めてるともさ。仕事ぶりにしたって随分成長したものだと思ってる。この前の〝吸込青の絵具〟は見事だったなあ」
「恐れ入ります。あれは……、優秀な案内人がいたんです」
 モモはちょっと笑って見せながら、あの仕事褒められるほど難易度高かったのか、と内心で驚いていた。あの絵具が手に入ったのは、モモが首尾よくやった、というよりも幸運だったというべきだ。
「まあ、それで、だ。お前、単独でのハンター任務はもうそんな問題ないから、調査任務やんねえか」
「……パートナーがつく、ってわけですね?」
「そういうわけだ」
 社長がニヤッと笑った。
「同じ歳の男でな、見た目はなかなか悪くないぞ」
「そうですか」
「なんだよー、反応薄いなあ。楽しみだなあドキドキ、とかないのか?」
「ドキドキ、って」
 社長相手にあからさまな渋面も作れなくて、モモが中途半端に引きつった笑みを浮かべると、ピーターが腹を抱えて笑い出した。
「ちょっとピーター兄さん、そんなに笑わなくても」
「モモが男に興味なさそうなんで喜んでんだろ?っていうか、お前まだ〝兄さん〟なんて呼ばせてんのかその歳で図々しいな」
「別に呼ばせてるわけじゃないさ」
 そう言うピーターの声にはまだ笑いの余韻があった。社長の少年っぽさとはまた違う若々しさが、ピーターにはあった。二人とも、40歳は越えているはずなのだが、どうしてもそうは見えない。
「まあいいや。で、お前のパートナーになる男だが。我が社には珍しい、純血くんだ。……が、そんなことよりもだな」
 社長がスッと笑みを落ち着かせた。やはり何か問題のある人物なのだろうか、とモモは内心で身構える。ポタラの困惑顔が脳裏をよぎった。
「目的球誤差ゼロの男だ」
「!?」
 モモは目を見張った。素直に驚きであった。
 ジャンパーはあらかじめ跳ぶ先の世界、つまり目的球を定めて跳ぶが、必ずしも行きたかった球へ跳べるとは限らない。単純にジャンパー自身の能力差もあるが、相性や磁場の関係もあるそうだ。
「誤差ゼロ、ってことはつまり、今まで一度も、目的に定めた球以外に跳んじゃったことがない、ってことですよね?」
「そういうことだな。まあ、なんつーか、天才、ってやつなのかなあ」
 正確な数字は覚えていないが、誤差の平均はだいたい20パーセントくらいのはずである。10回に2回は目的球を外す、ということだ。どんなベテランでもゼロ、などということはないという。モモはというと30パーセントほど。ちなみに、外した時はたいてい、第6球に跳んでいる。
「まあ、それを殊更気にすることはないが。お前の第6球のクセ、これでちょっと解消されるかもしれんぞ」
 社長がハハッと快活に笑ったとき、ドアがノックされた。
「おお、来たな。入れ」
「失礼致します」
 生真面目そうな返事のあとに姿を現したのは、黒髪の青年だった。随分と背が高い、と思ってから、モモはすぐにそれを取り消した。身長はピーターの方が高い。だが、この青年はピーターの一回りほども細身であるために背が高く見えるのだ。
 青年はモモにチラッと視線を走らせたが、すぐに真っ直ぐ社長に顔を向けた。
「エルマーです。お呼びに従い参上しました」
「おう、ご苦労さん。軍隊じゃないんだ、そう堅苦しくすんな。モモ、こいつがさっき話してた、お前のパートナー、エルマーだ」
 社長がモモに笑いかける。面白い奴だろう、とその目が語っていた。
「モモです、よろしく」
「……エルマーです」
 エルマー青年は、モモを値踏みするような目で眺めながら名乗った。
「二人に組んでもらって、これからしばらくは、主に調査任務にあたってもらう。経験はないもの同士だが、正直、経験者と組ませたからといって教えられることがあるわけでもないからな、異存はなかろう?」
「はい」
「ありません」
 現段階で異存を述べられるような事柄は見つけられない。ない、と言うしかない。
「よし。ジャンパー歴はモモの方が一年長いが、同い年だ。仲良くやってくれよ」
「ちなみに、さっそく三日後に初任務の予定だ。今日中に通信端末へ通達が行くと思うが」
 ピーターが、社長の後ろから付け加えた。エルマーは、弾かれたように、ピーターの方へ顔を向ける。
「失礼ですが、もしかして、ピーター殿ですか」
「そうだが……ピーターどの?」
 ピーターが困惑したような笑みでまばたきをすると、エルマーは彼に大股に近づいて握手を求めた。
「歴代でもっとも優秀なジャンパーと伺っております。フック社社長の右腕として今も大変なご活躍とか。私の目標としております。お会いできて光栄です」
「えーっと、誰からそのように伺っておりますのか知らないけど、ありがとう」
 握手に応えながら苦笑したピーターは、社長がニヤニヤ笑って見ているのに気付くと渋面で睨んだ。
「じゃ、二人とも、よろしくな」
 ピーターの視線から逃れるように、社長はポンポン、と手を叩いてモモとエルマーの退室を促した。軽く一礼してモモが背を向けると、ピーターに呼び止められる。
「モモ、クイーンのところには行ったのか?」
「はい、ここへ来る前に」
 モモがうなずくと、ピーターは安堵したように微笑んだ。
「……あの。もしかして、彼女は義足ジャンパーなのですか」
 エルマーが表情を硬くしていた。モモ本人ではなく、社長に尋ねている。
「そうだが、それが?」
「聞いていません」
「そうだっけ?……で、それが?」
 社長は笑顔のままでエルマーを見ていた。モモは内心で、なるほどそういうタイプか、と考えていた。
「それが、って」
 絶句するふうのエルマーに、社長はなお笑みを深くする。
「モモが義足ジャンパーであることが、何か任務に影響するかね?」
「それは……」
「異存が、あるか?」
「……いえ。失礼致します」
 社長の笑顔に気圧されるようにして言葉を飲み込んだらしいエルマーは、細長い体を真っ直ぐにして、社長室を出て行った。確かに面白い奴かも、と若干疲れ気味にモモは思って、社長とピーターに肩をすくめて見せると、自分も退室した。
 エルマーは、宿舎へ向かう通路に待ち構えるようにして立っていた。実際、待ち構えていたのだろう。
「俺は、義足ジャンパーを信用しない」
 名前を呼びかけることすらせず、エルマーはいきなり啖呵を切った。正面からくるか、とモモは苦笑しつつ、つとめて冷静に返した。
「なぜ?」
「なぜ、だと?能力をもって生まれることができなかったからといって、脚を切り、つけかえて能力を得るなど、卑しい行為にしか思えない!そんな偽りの能力で、きちんとした仕事ができるものか!」
「仕事、してきましたけど?三年間。お疑いなら、これ、見る?」
 モモはポーチから通信端末を取り出し、リストを呼び出す。第6球で手帳の形だったそれは、ハブではモニター型の通信端末に自動的に姿を変えるのである。
「そういうことではない!」
「じゃ、どういうことよ」
 たまにいるんだよなーこういう義足ジャンパーを毛嫌いするタイプ、と口に出さないように気を付ける。特に純血のジャンパーにおいてはむしろ、ポタラのように親しく接してくれることの方が稀だ。
「あのね?キミが義足ジャンパーを信用してなかろうが憎んでいようが恨んでいようが、なんだっていいんだけどさ。パートナーになった以上、一緒に仕事しないわけにはいかないでしょ。さっき、社長に異存はない、って言っちゃったんだから。自分で。それとも今から社長室に引き返して、やっぱり異存あります、って言いに行く?」
 ぐ、とエルマーは言葉に詰まった。これだけプライドの高そうな青年だ、そんなことはとてもできないであろう。
「んじゃ、ま、よろしくね」
 モモはひらっと手を振って、そそくさと宿舎へ向かって歩き出した。
 自分の部屋の前まで来てから、はあ、とひとつ溜息をつく。どうなることやら、と先行き不安に思ったそのときに、通信端末が任務着信を告げた。

 

 

連載第五回 モモ、20歳。

 母の顔が、思い出せない。
 父の顔も、思い出せない。
 液体に半身をひたして手を伸べる母の顔は、長く黒い髪がうねうねと覆い隠してしまっていたし、父は後頭部をこちらへ向けていた。
 寒かった。
 こめかみだけが温かく、鼻がツン、と痛んで、自分が泣いているのだということを知った。
 黒くぼわぼわとした影が、母の背に、父の背に、触れた。ふたりの体が大きく跳ねて、床にたまっていた液体が赤く飛び散った。
 それきり、ふたりは動かなくなった。
「あああ……、ああああああああああああ」
 叫んでいた、のだと、思う。
 黒くぼわぼわとした影は、一瞬だけ、倒れている少女を見て、

 

『トクラナ……』

 

 とだけ発した。そして、消えた。

 

 影に、見られた?影が、言葉を?
 その奇妙ささえ奇妙だと認識できるわけもなく、少女は。
「あああああああああああああああ!!!!!!!」
 叫んで、いたのだと思う。
 母と父に駆け寄りたくて、けれどできなかった。
 消えたものを追いたくて、けれどできなかった。
 立ち上がれ、
 立ち上がれ、
 あたしの脚よ
 立ち上がれ!
 立ち上がれ!
 お願いだから!!

 けれども脚は、動かない。
 動く脚が、そこにはなくて。

 

 十六歳の冬、少女の両親は黒い影に殺された。そして、少女の両脚も奪われた。

 

 

 

 薄明るい部屋で、20歳のモモは目覚めた。
 甘いような、酸っぱいような、夕暮れの空の色のような香りが、かすかにしていた。
 ここは第8球、通称・ハブ。フック社の宿舎に用意された部屋。
 燻したような色の天井にピントを合わせながら、胸中で唱える。起き上がる前の儀式みたいなものだ。所在の確認と、存在の確認。
 あの日の夢をみたあとは、その確認がわりあいにラクだ。
 随分と、久しぶりにみた気がする。
「あたしは、モモ」
 小さく声に出してから、ゆっくり起き上がった。薄手の掛布団を剥ぐと、白茶けた木製の義足がつるりと顔を出した。両脚とも、膝から下がこれである。そっと撫でると、いつもどおり、ひんやりとした硬い質感が手のひらに伝わった。
 これが、モモの商売道具である。世界の間を跳び回るための、脚。
 この脚が。
 思い出させる、この脚が。
 この脚がある、その所為で、思い出される。
 モモは、唇を噛みしめた。この脚さえなければ、そう考えてしまうことを、いまだにやめられない自分がイヤだ。
 今、自分が生きていられるのも、この脚があるからで。
 叩き割れない、壊せない。
 だからせめても、できるだけ、見ずにおく。
 先日の仕事でつけてしまった窪みから視線を引き剥がして、義足がすっぽり収まるブーツを履いた。
 クローゼットの中でアラームが鳴りだして、モモは通信端末を上着のポケットに入れたままにしていたことを思い出した。
『クイーン、義足健診』
 小さな画面にそう表示されているのを見てからアラームを止め、適当に髪を整えて上着を引っつかみ、部屋を出た。
 フック社のジャンパーになって3年になるが、モモはいまだに、宿舎のどの部屋に誰が住んでいるのかイマイチわかっていない。滞在時期も時間も社員は皆バラバラなのだから仕方ないのだけれど。
 世界間を跳び回ることを仕事にしている者たちを、ジャンパーと呼ぶ。様々な珍しい品物を仕入れたり、調査・諜報をするのである。
ジャンパーには大きく2種類の人間がいる。遺伝的な能力で世界を跳ぶ者と、特殊な素材の義足をつけることで世界を跳ぶ者である。割合としては圧倒的に遺伝的な能力を持つ者が多い。モモは、少数派である義足で跳ぶ者の中でもさらに少数な、両脚共が義足のジャンパーであった。
 ジャンパーを雇って事業を行っている会社は、主に3社だが、義足のジャンパーはほぼ全員がフック社に属していた。
「どうもー」
 軽い挨拶でモモが城に入ると、すらりと背の高い女性が、待ち構えていたようにキッと鋭い視線を向けてきた。城、というのは通称で、正式名称は、義足調整室。
「来たわね」
「に、睨まないでよクイーン」
「脚の傷ないがしろにしたあなたに文句を言う資格はない!」
 体のラインをすらりと見せる細身の真っ赤なワンピースに、足元は銀のピンヒールという姿のクイーンは、フック社が誇る腕のいい義肢技師である。冷ややかな眼差しが彼女の美貌を際立させていた。
「だってちょっとへこんだだけだよ?毒矢でもなかったし、大丈夫だったよ?」
「大丈夫かどうかを判断するのは私の仕事なの。さっさと見せて」
 モモはブーツを脱ぐと、長椅子に上がって両脚を伸ばした。クイーンが、サッと全体に目を走らせてから、左の義足についた傷に触れた。
「そんなに深くないみたいね」
「うん、すぐ抜いたし」
「でも刺さった衝撃で継手に歪みが出てる可能性はある。一度外して点検するわよ」
「はーい」
 左の義足だけを外すと、クイーンは素早く太ももあたりから下がすべて覆い隠される大きさのブランケットをモモにかぶせた。
「ったく、なんで傷受けてすぐ帰って来ないの?第6球で付けられて、そこから第130球と第36球を回ってくるだなんて」
 冷たい眼差しはそのままに、クイーンは口調だけを加熱させていく。表情の変化は乏しいのに饒舌、というのがこの美しき凄腕技師の不思議な魅力のひとつであった。
「す、すみません……」
 肩をすぼめて素直に謝る。クイーンはハア、とため息をつくと、モモの目の前の作業台で点検を始めた。
「もう少し労わってよ、自分の脚なんだから」
「……あたしの脚は、切り離されちゃったのよ」
「え?何?」
 モモがぼそりと言ったセリフは、クイーンには聞こえなかったようだった。モモの表情を窺うようにするクイーンに、なんでもない、と笑うと、クイーンは肩をすくめて作業台に視線を戻した。
 モモはできるだけそちらを見ないようにして、ブランケットの上に投げ出した両手の指先、決して綺麗とは言えないギザギザに欠けた爪を、見るとはなしに眺めた。
「そういえば、また第6球だったの?」
「そうなの。初めての国ではあったけど。なんでなのかなあ?」
 モモたちジャンパーは、飛び渡る世界をナンバリングし「球」と呼ぶ。実際、外側から見ると球形なんだそうだが、モモは平社員というか平ジャンパーであるため「外側」など見たことはない。
「あたし、目的球誤差、低い方じゃないから偉そうなこと言えないけど……、使いこなせてると思うんだけどなあ」
 クイーンの手元にある義足を眺めながらぼやくように言う。
「使いこなせてる、ねえ……」
 クイーンは肯定も否定もしなかった。
「誤差数値はともかくとしても、第6球ばかり、というのが、ね」
「そう、それなんだよね。やっぱ、引き寄せられてる感じするんだよなあ」

「……あんたが追ってるものには関係なさそうなんでしょ?」

「うん、散々調査はしたんだけど、どうも関係なさそう。そう都合よくはいかないってことね」

 両親の命と、両脚を奪った黒い影を、モモは3年間ずっと追っている。いまだ、しっぽすらつかめていないのだけれど。なにせ、手がかりは〝トクラナ〟という言葉だけだ。その意味すらもわからぬとあれば、雲をもつかむ、いや影をもつかむような話であった。

「相変わらず、こっちでも新しい情報はないわよ。毎度こんなことで申し訳ないけど」

「クイーン姐さんが申し訳なくなることないでしょ。気にかけてくれてるだけで有難いよ」

「姐さんはやめて」

 ぴしゃりと言われてモモは笑う。そういえばクイーンの年齢を尋ねたことは一度もなかった。自分より年上であることは間違いなかろう、とモモは思ってはいるのだが、改めて問う勇気は起きない。

「そういえばこの前、ポタラが来たわ」
ポタラ?サンスーシ社の?」
「そう。相変わらず可憐な娘よねー。それに比べて、いっつもくっついて歩いてるロベンの奴は何なの?図体もデカイなら態度もデカイ!ポタラはよくあんな男と一緒に仕事してるわよね」
 ジャンパーの所属している会社は、フック社の他にサンスーシ社とホァン社がある。ライバル社、ということにはなるが、それぞれ顧客の特性が違うため、実際のところ競うような事柄はないに等しく、むしろ協力体制が整えられていることが多い。特に、サンスーシ社はすべての「球」を監視するシステムを持っており、それを使わぬことにはどの社に所属するジャンパーも世界を跳ぶことはできない。らしい。
 モモにはそういう、システムの根幹はわからないので、もっとわかりやすい特徴で3社を捉えていた。サンスーシ社に所属できるのは遺伝によってジャンパーになった者、それも、純血と呼ばれる、代々がジャンパーの血統である者だけである。ホァン社はジャンパーの出自は問わないが、請け負う仕事が「調査任務」のみに限っている。フック社はなんでもあり、だ。特徴を挙げるならば、腕のいい義肢技師が所属しているため、ホァン社よりも義足ジャンパーが多い、ということくらいであろうか。
「で、ポタラは何の用事だったの?」
 クイーンがまったく表情を変えないまま捲し立てるロベンへの文句が、一区切りするのを待って、モモは尋ねた。
「ああ、素材の情報を持ってきてくれただけなんだけどね」
「あ、そう……。良かったじゃないですか」
 どうやら愚痴を言いたかっただけのようだ、とモモは微笑んだ。
「まあね。使えるかどうかはまだわからないけどね。私が直接見に行けたらいいけど、私はジャンパーじゃないから」
 素材、というのは、義足の、という意味である。世界を跳ぶ脚となるための義足は、特殊な木材で作られるそうだ。
「じゃあ、もしかしてクイーンは木材の形になる前のカグの樹、見たことないの?」
「ないの」
「そうなんだ……」
 モモは少し不思議な気分で、クイーンの調整を受けている自分の義足を眺めた。
「ん、いいかな。モモ、脚、戻すよ」
 クイーンが両手で捧げ持つように左の義足をモモの前に持ってくる。モモはブランケットをめくった。膝の断端は、赤ん坊の肌のように柔らかそうで、つやつやしていた。ここを斬られたときの痛みは、この世のものと思えないほどであったのに、今は不思議と、さっぱり、忘れてしまっていた。この世とかあの世とか、そういう既存の概念がすべて吹っ飛ばされてしまったからかもしれない。
 モモが見つめていた先を、クイーンも見つめていた。左の義足を持ったままで。
「大丈夫、もう痛くないから」
 モモが微笑むと、クイーンはごく平坦に、知ってるわ、と言って義足をはめてくれた。
「どう?違和感ある?」
 モモは長椅子の上で少し確かめてから、床に立ち上がって何度か屈伸運動をしてみた。違和感はまるでなく、むしろ前よりもなめらかに動くような気がするほどだった。そしてそれはおそらく気がするだけでなく事実そうなのだろう。
「問題ないよ、素晴らしく遠くまで跳べそう!」
「それはよかった」
 にこりともせず、クイーンがうなずく。
「右も調整しておく?」
「ううん、とりあえずいいや。なんか、社長から呼び出されてるし、しばらくハブにいなきゃいけないんじゃないかな、あたし」
「じゃ、また何かあったら来て。……すぐに、よ?」
「はあい」
 鼻先に人差し指を突き付けられて、モモは笑った。ブーツを履いて、城を出ようとしたとき、クイーンが思わず、といったように呼び止める。
「ねえ、モモ」
「ん?」
「あんたさ、聞き上手なんだから、他人の話ばかりじゃなくて自分の話にも耳を傾けてあげなさいよ?たまには」
 表情はやはり変わらぬまま、冷ややかなままだったが、口調には気遣うものが感じられて、モモはホットチョコレートを飲んだあとのような気持ちになった。
「うん、ありがとう、クイーン姐さん」
「姐さんはやめて」
 あはは、と、モモは声に出して笑った。

連載第四回 友だち

 丘は、半分ほど上がると、木々が深く林になっているところと、開けて原っぱが広がっているところに分かれる。ペシェとメロはいつも、原っぱの方で足を止めていた。メロはよく、ここで写生をする。

「じゃあ、あっちの、木が多い方にはあまり行かないんだ?」

「うん。薄暗いし、それに、あっちの方が少し傾斜が急なんだ。僕らはほとんど行ったことがないし、他の子もあまり行かないと思うなあ……」

「ふうん。じゃあ俄然、あっちに可能性があるってことね」

 モモは迷わず、林の方へ向かった。さっきまで先に立って歩いていたペシェだが、またしてもモモを追う形になる。これでは案内にならないのではないかと思うのだが。

「何かを探すことにかけちゃ、あたしの方が慣れてるからこれでいいの」

 ペシェの心中を読んだように、モモが笑った。無邪気なようで、けれど妙に大人びていて、やはり不思議な印象は変わらなかった。何者なんだろう、と、もう何度目かの疑問を浮かべて、けれども、直球で尋ねて答えてくれるとも思えなかった。

「ねえ、モモは……、いくつなの?」

「変化球で攻めたつもりかもしれないけど、女性に年齢を訊くってどうなのー?」

 完全に意図がばれていたこともそうだけれど、無作法さも指摘されてペシェはぐう、と喉を鳴らした。モモはあはは、と昨日出会ったときのような笑い方をした。

「17歳プラス3歳」

「……20歳、ってことだよね?」

「ちがーう!17歳プラス3歳!そこ間違えないで!」

「違わないだろ……」

 女の人ってどうしてこう、若さにこだわるんだろう、とペシェは自分の母親を思い出して首をひねった。

「違うの。…………もう、三年も経ってしまった」

 後半は、ほとんど独り言のようだった。モモの快活な表情に一瞬陰りが見え、ペシェはその淡い変化に見惚れた。その途端に。

「うわっ!」

 樹の根に躓いてしまった。すかさず、モモが手を貸してくれたが、そうでなければ顔面から倒れ込んでいたかもしれない。

「大丈夫?気をつけて……あ」

 ペシェを気遣うモモのセリフが、不自然に途切れた。

「何?どうしたの?」

 起き上がりながら、モモが指をさす方を見ると。生い茂る木々と同じ色の壁を持つ、小さな小屋が見えた。

「うっそぉ……。こんな簡単に見つかっていいのかな……」

「そういうこと言わないのー。いいじゃない、見つかりゃいいの、見つかりゃ。まだあそこに透明な絵具があるかどうかはわかんないんだから」

 モモが小屋の方へ行くのを追いながら、だからその透明な絵具ってのは何なんだよ、とペシェは口の中で呟いた。それを見つけるのが、モモの仕事らしいことは、推察できるにしても。

 小屋、と呼ぶにはしっかりした作りだが、家、と呼ぶにはいささか簡素なその建物は、中に入ってみるまでもなく、誰も住んではいなさそうだった。小屋の脇には、土と煉瓦をこんもりと盛ったものがある。

「あれ、何だろう……、パン焼き窯かな」

「窯は間違ってないと思うけど、パンじゃなくて陶磁器の窯じゃないのかな」

 モモは小屋のドアに耳をそばだてて中をうかがった。

「うーん、長いこと誰も入っていないような感じだけど」

 モモが一応、という感じでノックをするが、返事はない。ドアに対して体をナナメにして、そろり、とノブを引くと、ドアは難なく開いた。すう、と暗闇に埃が立ち上るのがわかる。だが、ドアの向こうがどうなっているかは、ここからはとてもわかりそうになかった。

「ペシェ、とりあえずここにいて。ちょっと中、見て来るから」

「う、うん」

 咄嗟にうなずいてしまってから、自分の情けなさに歯噛みした。小屋の中の、とても昼間とは思えない暗さに気おくれしてしまったのである。

 モモは滑り込むようにドアの向こうへ入って行った。ペシェは、そのドアに身を寄せて、細く開いた隙間から、そろそろと中を覗き込んだ。真っ暗な中でも、モモが動いているらしい気配はわかって、だんだん目が慣れてくると、小屋の中に何があるのかおぼろげにわかってきた。牛の乳搾りに使うような低い椅子の周りに、筆や刷毛や、使い道のよくわからない道具が転がっている。奥の方には、何か同じ形のものがいくつも並んでいるらしいのが見えた。上部が細くなっていて、下部にいくほど丸みを帯びた形状は、壺に見えた。外にあった窯で焼いたものなのだろう。いや、焼く前のものだったのかもしれないが。

 もう少しよく見たい、とドアの開く加減を広くすると、壺らしきものが、きらりと光ったように見えた。

「えっ」

 それが見知った模様に思えて、ペシェは暗闇への恐怖も忘れて小屋の中へ飛び込んだ。すると、踏み出した右足が、がくん、と嫌な感じに沈む。

「えええーーーっ!?」

「ちょ、ペシェ!!」

 床下へ沈まんとするペシェを、素早く駆けつけたモモがすんでのところで引き上げる。けれども引き上げた反動で、今度はモモが、ペシェが踏み抜いてしまった床の穴へ落ちて行った。

「モモ!!」

 引き上げられ、というよりは放り上げられるようにして床の上へ投げ出され、ペシェは仰向けに転がって後頭部をしたたかに打った。痛むのをさすることもせず、すぐ身を起こすと、穴のふちに取りすがるように腹ばいになった。

「モモー!?」

 穴を覗いたペシェの目の前を何か細いものが飛んで行って、ドス、びよん、という音をたてて天井に突き刺さった。

「ええ!?」

「ペシェ顔出すな!伏せて頭抱えてな!!」

 叫び声と共に、モモが床の穴から飛び出してきた。ごろごろ、と床を転がり、ペシェよりも小屋の奥へ行ったところ、壺が並んでいる少し手前で止まった。

「危なかったぁ」

 はーっ、と深く溜息をついてむくり、と身を起こす。良かった、動けるんだ、とペシェは胸を撫で下ろした。

「ペシェ、怪我はない?」

「うん、大丈夫。ごめんなさい、僕、外にいろって言われたのに……」

「あー、うん、まあ、そこは反省していただいて構わないけどね、でもペシェ、あんた見事に大当たりを案内してくれたよ」

「へ?」

 ぽかんとするペシェに、モモは笑って天井を指さした。天井には、竹ひごを随分と太くしたようなものが突き刺さっている。さっき、ペシェの目の前を飛んで行ったものらしかった。

「え、あれ、もしかして、矢!?」

「そうそう。この床下に着地すると発射されるように仕掛けがしてあったみたい」

 モモは事もなげに言うが、ペシェは本の挿絵以外で矢なんてものを見るのは初めてだ。驚きで目を白黒させながら天井とモモを交互に見て、そして、モモの長いブーツにも天井のものと同じ矢が突き刺さっていることに気がついた。

「モモ!!」

「ん?どうした?」

「どうした、じゃないよ、矢が!あ、足に!」

 ペシェは慌ててモモににじり寄った。床を踏み抜かないように、今度こそは気をつけて、であったけれど。

「ああ、そうだった。この部分で助かったけど、これまたクイーンに怒られるんだろうなー」

 左足の、ふくらはぎの部分に刺さった矢を見おろして、モモはのんびりそんなことを言う。

「うわ、結構深く刺さっちゃったなあ。ペシェ、ちょっと脚押さえててくれる?」

「え、ええ?うん……」

 怪我をしている本人であるはずのモモがあまりに冷静であるために、ペシェもなんとなく気がそがれてしまって、言われるままに、モモの左足を押さえた。と、その感触に息を飲む。

「よいしょ!」

 掛け声と共に、矢を引き抜いたモモの顔を、ペシェは凝視してしまっていた。

 モモの、足は、石のように硬かった。とても血が通っているとは思えない硬さだった。

「心配いらないよ。あたしの脚、義足だから。膝から下が、両脚ともね」

「あ……」

 ペシェが言葉を探して固まっている間に、モモは引き抜いた矢をぽいっと捨てて立ち上がった。凛々しい横顔。強がっているのではなく、本当に心配はいらないようだ。風もないのに、サッと、爽やかな香りがペシェの鼻をくすぐった気がした。

「仕掛けがしてある、ってことは、何か大切なものを隠してる可能性が高い」

「なるほど……。でも、これ以上の危険な仕掛けがしてある可能性も」

「あるね、もちろん。だから、ペシェ、今度こそ小屋から出て待っててよね」

「う、うん」

 モモの背後に目をやりながら、ペシェはうなずく。思わず小屋の中に飛び込んだ理由を思い出した。

「ドア、できるだけ大きく開いておいて。で、何が起きても何が聞こえてきても、中に入って来ないように!いいね?」

「な、何が起きてもって……」

 何が起きるんだよ、とペシェは息を飲んだ。これ以上の危険な仕掛け、と言ったのはペシェではあったけれど、矢が飛んできた時点で充分予想外だったのだ。

「だーいじょぶ、死にゃあしないわよ、あたし異世界人だし」

 モモは快活に笑った。異世界人って不死身と同義語だっけ、と疑問に思わないことはなかったが、不思議とこの場面では、それが一番納得できる理由のような気がして、ペシェも、笑った。

「じゃ、よろしく!」

 モモは、床の穴に下りて行った。ペシェはずらずら並んだ壺の中からひとつを引っ掴んでから、床を新しく踏み抜いてしまわないように気をつけて小屋を出た。薄暗いところに長くいた所為だろう、外が異常に眩しく思えて目を細める。言われた通りにドアを全開にする。埃で白くなっている床は、ペシェとモモが歩いたり転げまわったりしたところだけ板の色を取り戻していた。そして、タライくらいの大きさの、穴。

 何の役にも立たなかったな、と思って、ペシェはその穴をみつめた。今朝、モモから受け取った硬貨を引っ張り出して、握りしめる。この、60ベラを手にするだけの働きが、自分にできていたのかどうか。

 不意に、目の前が翳ったような気がして、ペシェは視線を上げた。真夏の昼過ぎ、一番暑い時間の空、吸込青。それが、だんだん視界の中でナナメになっていくような気がした。……気がして、気がつく。

 小屋が、傾き始めている。

「モモ!!小屋が崩れる!!モモ!!」

 めいっぱい開いたドアから、めいっぱい大きな声で叫んだ。

「ペシェ!受け取って!」

 穴から、モモのものらしき腕だけがのぞいたかと思うと、何かが投げられた。

「ええ!!」

 咄嗟に差し出したのは、小屋を出るときに引っ掴んできた壺。黄色い鳥が、翼を広げた模様の壺だ。投げられた何かは、壺の中へ綺麗に収まった。

「お上手ぅ!」

 ひゅう、という口笛が聞こえたかと思うと、モモが飛び出してきて、ペシェを壺ごと抱え、凄い速さで小屋から離れた。

「うわああ!?」

 すわっ、と体が浮いて、引っ張られるように、いや実際は抱えられていたわけだけれど、とにかく風のように、ペシェはそこから移動していて、次の瞬間には林を抜けたいつもの原っぱに立っていた。

「はー、危なかった!」

 太ももに手を置いて、モモは大きく息をついていた。見たところ、どこにも怪我はなさそうだけれど、全体的に土埃に汚れている。

「な、なに今の……」

 茫然と呟くと、モモはそれには答えずニヤリ、として、速かったでしょ、と言った。

「あ、そうだこれ」

 ペシェは抱えていた壺の中から小さな赤い箱を取り出す。モモが小屋の穴から投げたものだ。

「ありがと!いやー、ホント助かったわ、ペシェ。あそこで叫んで知らせてくれなきゃどうなってたことか」

「あ、いや」

 本気の調子で感謝されて、ちょっと面映ゆい気持ちになる。同時に、凄く満たされた気持ちにもなった。

「透明な絵具、あったの?」

「あったの」

 モモは嬉しそうに箱の中をちらり、と見せてくれた。緩衝剤としてなのだろう、おがくずが詰まったところに、小さな小瓶が入っていた。

「ところでペシェ、その壺何よ?」

「うん、さっきの小屋に並んでたのを、一個持ってきちゃったんだけど……、これさ、割れた学校の壺と同じだったんだ」

 あの小屋、いや本当はアトリエと呼ぶべきなんだろうか。あそこで作られたものだったのだ。

「あのさ、だからってわけじゃないんだけど……、これ、返すよ」

 ペシェは、60ベラを手のひらにのせてモモの前に差し出した。

「僕、何の役にも立たなかったし……」

「そうなの?」

 少し、視線を落としたペシェに、モモが静かに尋ねた。そうなの?役に立たなかったからって、お金を返すの?

 ペシェは、顔を上げた。営業スマイルではない笑顔を、モモに向ける。

「モモの仕事を手伝ってあげたのは、モモの友だちだからだ。友だちからお金をもらうのは、おかしいからね」

 モモは、にっこりした。ペシェに向けた、自然な笑顔だ。

「うん。そういうことなら、返してもらっとく」

 硬貨が、モモの手に渡ったとき、ペシェは、唐突に、モモとはここでお別れなんだ、とわかった。わかったけれど、訊かずにはいられなかった。

「ねえ、モモとはもう会えないの?」

「んー、結構高い確率でまた会えると思うよ?なんか、あたし、ココと相性いいらしいしさあ」

 小首を傾げて、そんな、よくわからないことを言ったあとで、モモはそれに、と付け加えた。

「友だちなんだから」

「……うん、そうだね」

 その理屈も結局よくわからないと思ったけれど、ペシェはうなずいた。

 

 

* * *

 

 

 モモは、充分な助走をつけて、空へ跳び上がった。

 すわっとした浮遊感。

 目の前が、ぐうん、と開けた。

 空(そら)を駆けながら、小瓶の口を開けて、空(くう)を撫でるように手を動かすと、小瓶の中の透明な液体は、じわじわと、青く染まった。深い深い、青に。

「吸込青の絵具、入手完了」

 風のように囁いて、モモはさらに高く空を駆けた。

連載第三回 ドーナツとネクターと

 近道と言ったのは嘘ではないけれど、脇道を選んだのには別の理由もあった。丘に向かうにはペシェが通う学校を越えて行かなければならない。通学路になっている大きな道の周囲は、同級生たちに出会う確率が高かった。できるかぎり、遭遇は避けたい。

 どんなに避けても一度は出なくてはならない道ではあるのだが。

 その道へついに出たとき、ペシェは我ながら不自然と思えるほど周囲をきょろきょろと気にしていた。ちょっと考えてみれば、とっくにどこかで見られていたとしても不思議ではなかったのだから、今更気にしても仕方がないと言えば仕方がないのだが、一度気になってしまうと途端に不安になるものだ。

「ちょっと待って」

 モモにそう呼び止められたとき、その不審な様子を見咎められたものと思って、ペシェの背中は強張った。

 けれども、そんな心配をよそにモモは道の脇の屋台に近づいて行くと、茶色い袋をふたつとネクターが入っているらしい瓶を2本抱えて戻ってきた。ひとつをペシェに差し出す。

「はい。お腹空いてきたから」

「え、でも……」

「いーから。案内中の食事代は必要経費よ、雇い主が持つもんなの。それとも歩きながらの食事は嫌ってこと?」

 ペシェは首を横に振って、袋を受け取った。あたたかい。中身は、じゃがいもドーナツだった。懐中時計くらいの大きさの、平たい円形のドーナツが、一袋に5個。ひとつ取り出して齧りつきながら、ペシェとモモは再び歩き出す。

「なかなか美味しいね、これ」

 モモは満足そうである。パニーでは一般的な軽食だが、よそでは違うのかもしれない。そもそも、本当に、モモは何者なのだろうか。異世界人、だなんていうのはペシェをからかうための言葉だったのに違いないけれど、それにしても。

 ペシェがその問いをモモに投げかける前に、モモの方からペシェに問われた。このタイミングを待っていた、いや、待っていてくれたんだろうというのは、ペシェにもわかった。

「で?300ベラが必要な本当の理由って何?」

「げほっ」

 ここでじゃがいもドーナツを喉に詰まらせてむせてしまった時点で、ペシェの敗北は決まっていたようなものなのだが、悪あがきをせずにはいられない。

「ほ、本当の、って……。だから僕は」

「日常的に働いてる者は、あんな穴だらけの契約で仕事請け負わないっつの。いくら子どもでもね。軽々しく生活のため、とか言うんじゃない」

 ぴしゃりと一蹴されて、ペシェは一言の反論もできずに黙った。

 黙って……、夏休みに入る直前の出来事を思い出した。

 物が壊れる、絶望的に美しい音。初めて間近で見た、人の顔がみるみる蒼白になっていく様子。

「……学校の、玄関の壺を割ったんだ。だからそれを、弁償しなくちゃいけないんだ」

 それだけを言って、ペシェはじゃがいもドーナツをもうひとつ食べた。モモはそれに対して何を言うわけでもなく、自分もドーナツを食べ続けた。

 丘が近くなるにつれて民家はまばらになり、道も舗装されたものではなくなっていく。デコボコした地面の細い道を、ペシェのひざ下あたりまで青々と伸びた夏草が縁取っていた。

 ペシェがドーナツを食べ終わったのを見計らって、モモがネクターの瓶を差し出した。甘いネクターはよく冷えていて美味しかった。

 ふと横目で眺めると、モモも美味しそうに瓶に口をつけていた。このひとは本当に、何者なのだろうか、とペシェはまた思った。また思って、けれど今度は、何者でも構わない気がした。

「掃除当番だったんだ」

 呟くように、ペシェは話し出していた。

「僕と、メロと、ポムとノイエの四人で、学校の、来客用の玄関の掃除当番だったんだ」

 来客用の玄関は校長室の脇にあり、児童生徒が利用することのない、つまりはペシェたちが普段まったく近寄ることのないところだった。長期休みの直前にだけ、児童生徒に割り当てられることになっている掃除場所で、四人の少年たちは妙にはしゃいでいた。いつもメロをからかってバカにしているポムとノイエのことを、ペシェは良く思っていないのだが、あまり気にならなくなるくらいには、気持ちが浮き立っていた。

 来客用の玄関はとにかく魅力的だった。扉は飴色の高級そうな木材でつくられていたし、天井にはタイル細工で百合の花が描かれていたのが実に見事だった。それに何より、玄関を入った正面には飾り棚があって、蝶の標本箱とか、年代物のランプとか、ペシェたちの興味をそそるものがたくさん置いてあったのだ。

「そこではしゃいで、飾り棚にあった壺を割ってしまった、というわけ?」

 モモは、なんだか納得できない、というような声を出した。ペシェはゆるく、首を横に振った。その言い方は間違いではないけれど、正しくもない。

「ポムとノイエがあまりに騒がしかったんで、先生が、飾り棚のものは僕とメロで磨くように言いつけたんだ。ポムとノイエは、掃き掃除をするように、って。それが気に入らなかったんだと思う。先生が立ち去ってから、やつら、箒をおおげさに振り回し始めて……」

 下手に取り合えば刺激するだけだとわかっていたから、ペシェはできるだけ二人を無視して飾り棚の掃除に集中した。が、振り回されている箒がいつこちらに向けられるか、標本箱やランプをなぎ倒してしまわないかと気が気ではなかった。

 そして、全然相手にされないことに苛立ったノイエが、メロに向かって箒を振り上げたときに、それは起こった。

 メロが驚いて、よろめいた拍子に、壺に肘が当たって床に落ち、砕け散ったのである。黄色い鳥が翼を広げている様子が描かれた壺だった。

「メロは少し、足が悪いんだ。それをわかっててやったんだから、絶対にノイエが悪い。なのに、壺が割れたのはメロがとろい所為だ、なんて言うから」

 壺が割れたのを見て、メロの顔はみるみる蒼白になっていった。それを見て、ノイエは笑っていた。ペシェにはそれが、何よりも邪悪な笑顔に見えた。ペシェの頭に、カッと血が上った。

 いつの間にかポムが先生を呼びに行っていたらしく、駆け付けられたときには、メロは割れた壺の目の前で茫然としており、ペシェは……、ノイエに馬乗りになって殴りかかっていた。

「あーあ……。そりゃまたマズいタイミングだったね」

 モモが顔をしかめる。

「で、その壺の弁償代が300ベラ?」

「うん……。先生は、メロの親に知らせる、って言ったんだ。だけど、それだけはやめてくれ、って頼んで……。僕が必ず弁償するから、って。古道具屋で、同じ壺を売っているのを見たことがあったから」

 メロの家は、メロの足の治療費を出すために、家族総出で働いている。壺のために300ベラ出して欲しいなんて、メロにはとても言えないに違いなかった。

「メロはひょこひょこ、つっかえたようにしか歩けないから、ポムやノイエはいつもそれをバカにしてたんだ。でも!走れなくても、泳げなくても、メロはあいつらの誰よりも賢いし、優しいし、それに、絵が上手なんだ!だから、だから……」

 不意に泣きそうになって、ペシェは唇を噛んだ。感情が高ぶっているのが自分でもわかった。

「大事な友だちなんだね、メロは」

 モモが、静かに言った。偉かったね、と褒めることもなく、そんなことまでしなくても、と呆れるでもなく、壺を割ったことを叱るでもなく、ただ、そう言った。ペシェは、黙って深くうなずいた。

「よぉっし。じゃあ張り切ってその300ベラ、稼いでもらおうじゃないの!」

 モモが大きな声を出したすきに、ペシェはこっそり鼻を啜りあげた。

「うん」

連載第二回 透明な絵具

 翌日の朝8時ちょうどに、時計広場へ行くと、モモはすでにやって来ていた。ペシェの顔を見るとちょっと眉を動かしたが、何も言わなかった。昨日の、親しげな感じとは随分違う。

「おはよう……」

「おはよう」

 挨拶は返してくれたので一応は安心して、ペシェは営業スマイルというやつをやって見せた。昨夜、鏡の前で何度も練習したのだ。それに、観光スポットもチェックしてきた。自分の街の観光スポットというのは案外、知らないものだな、と思ったものである。

「さあ、モモ!どこへ行きたい?一番のおススメは展望台、それから噴水広場だよ!」

「……この街に画家はいない?もしくは、工芸工房」

「画家……?」

 モモはごく平坦に言った。ペシェは戸惑いつつもそれについての代案を考える。画家の知り合いなどいない。

「えっと、絵が見たいなら、美術館が、噴水広場の近くに……」

「美術館じゃダメ。画廊とか、ペンキ屋でもいいわ、知らないの?」

「ペンキ屋、っていうか……、看板工房なら……」

「じゃあ、とりあえずそこでいい。案内して」

「え、でも」

 何が目的で、と尋ねようとしたペシェを遮るように、モモは腰のポーチから硬貨を取り出して見せた。

「とりあえず、今日の分として60ベラ前払いしておく。残りは無事に五日間が終了してから。日払いが良ければ毎日60ベラずつ払ってもいいけど。どっちにする?」

 ごくっ、と喉を鳴らして、モモの手のひらの上の硬貨をみつめた。親から、お小遣いとしてもらう以外で金を手にするのは初めてだ。おそるおそる受け取ってから、ペシェはモモの顔を見ることなく答えた。

「残りは最終日にもらいます」

「……あ、そ。じゃ、行きましょう。どっち?」

 硬貨をしっかりと鞄にしまって、ペシェは先に立って歩き出した。看板工房は裏通りを抜けたところの、工場街にある。

 裏通りは煉瓦製の建物が隙間少なに建っている所為か、薄暗くて真夏でもひんやりしている。恐ろしい、という印象はないものの、用もなく一人でうろうろしたくはないところだ。けれど、たとえ二人で歩いていたとしても、その二人の間に会話がなければ一人で来た方がマシというものかもしれない。

 モモは、一言も発することなく前を行くペシェについて来た。ペシェは、街の観光スポットを紹介するセリフでその沈黙を破ろうかと思ったが、気まずさに飲まれて声を発することができなかった。そもそも、こんな裏通りで観光スポットの紹介もないものだ。

 昨日出会った時には明るくて、どちらかというとおしゃべりな人、という印象だったのに、今日は様子が随分と違う。第一印象があてにならない、というのはこういうことなのだろうか。

 そうして沈黙が保たれたまま、裏通りを抜ける。太陽の光をたっぷり受けた、広々とした通りに出た。道には舗装がなく、馬車の轍がくっきりと見えた。

「その、角から三つ目だよ」

「工房の人の中に、知り合いはいる?」

 ペシェは首を横に振った。場所の案内はできたけれど、ペシェ自身は工房とは何の付き合いもない。何度か工房の前を通ったことがある程度なのだ。知り合いはおろか、挨拶をしたことのある人がいるかどうかも怪しい。

「そう」

 モモはさして問題はない、と言うようにうなずいて、どんどん工房目指して歩いて行った。ペシェは慌てて小走りにそれを追う。

 工房の広い入り口は開け放たれていて、通りにまでペンキの臭いが流れていた。覗き込まなくても刷毛を持った職人たちの仕事ぶりが見える。

 戸口、というよりは道と工房の境目に立って、モモは職人の中でも一番年かさの男に声をかけた。

「ごめんください」

「はい?」

 振り向いた男は丸顔で、少し白髪の混じった口髭をたくわえていた。モモを見て、少し驚いたような目をする。

「ちょっとお尋ねしたいんですけれど、こちらで使われているペンキ類は、どちらで仕入れていらっしゃるんでしょうか」

「どちらで、って、問屋からまとめて仕入れてるんだけど」

「ここで作ったりはしてないんでしょうか」

「ペンキを作るのは無理だなあ。俺たちゃ、ペンキを塗るのが仕事だから。ペンキを混ぜて色を作ることは、よくあるけどよ」

 モモは、ふむふむ、といかにも興味深い、というように熱心な表情で聞いている。

「一番良く使う色は、何ですか?」

「んー、そうだなあ、今年は赤かねえ。毎年、流行が違うんだ」

「なるほどー。……透明、というのは、どうなんですか?」

「透明?」

 男が怪訝そうな顔をする。モモはどこまでも熱心そうな、邪気のない笑みのままだった。

「はい。透明なペンキ、っていうのはないんですか?」

「あっはは、お嬢ちゃん、透明、というのは色に入らねえんだよ。仕上げに塗る、上掛ニスなら透明だが、あれはペンキじゃないからなあ」

「あ、そっか!」

 男がうはは、と大きく笑って、周囲で作業をしていた職人たちも笑った。

「すみません、あたし、何も知らなくて。あの、もしよかったら、その問屋さんの場所を教えていただけませんか」

「いいけど、あそこは小売りしないかもしれないぞ?つーかお嬢ちゃん、ペンキで何すんだ?」

「自分の家の壁を、塗りなおそうかと思って」

「へえ?自分で?」

 片眉を持ち上げて笑顔を作ると、男は工房の奥から薄い冊子を持ってきてモモに手渡した。

「これ、その問屋のカタログだ。内容は古いんで役に立たねえけど、住所は変わってないから、いいよな?」

「はい、充分です。ありがとうございました」

 ぺこり、と深々お辞儀をするモモに、職人たちがにこにこ手を振る。壁塗り失敗したらまた来いよー、とか言う声に、モモも手を振りかえして、工房から離れた。

 ペシェは、その一部始終をただ突っ立って眺めていた。モモが歩き出すのを、慌てて追う。

「ダメか。まあ、最初から上手くはいかないよね」

 工房で話していた声よりもだいぶトーンを落としてモモは呟き、ペシェを振り返ってカタログの住所のページを見せた。

「ここ、わかる?」

「あ、うん……。番地、わかんないけど、近くまでは」

「じゃ、よろしく」

 短く言うとまた背を向ける。ペシェはムッとして立ち止まった。この態度の変わりようは何だというのか。あまりにもひどい扱いではないか。

「……どうしたの?案内してよ」

 ペシェが動こうとしないのに気がついて、モモが振り返った。

「自分の家の壁を塗りなおす、なんて嘘なんだろ」

「……そうだけど?それが?」

 平然と言い返されて、ちょっと詰まった。ペシェが引っかかりを感じているのは、本当はそこじゃない。

「う、嘘つきの案内はできない。何が目的でパニーに来たのか、最終的にどこへ案内させようとしてるのか言ってもらわないと」

「それ、契約の条件に入ってたの?なんで最初に言わないわけ?」

「そ、それは……」

「お金払ってからそういうこと言い出すのはおかしいんじゃないの?」

 ペシェの苦し紛れのセリフは、モモの正論すぎる冷静さにすべて打ち返されてしまった。それでも、この扱いは不当だということだけは伝えたくて、声を大きくする。

「モモは不思議な人だけど、悪い人じゃないと思ったから案内を申し出たんだ!ここのこと何もわかってないみたいだったし、観光するにも困るだろうと思って……!たくさん、案内のセリフとか歴史とか、喋れるようにしてきたのに、なんかわけわかんないところにばかり!えらそうに命令するばっかりで僕の話を聞いてもくれないなんて、いくらなんでもヒドイよ!」

「……あのさあ」

 言いたいことを全部ぶちまけたペシェを見おろして、モモは溜息をついた。

「それの、なにがどうヒドイわけ?」

「なっ?」

 一蹴された。モモが両手を腰に当てる。

「そもそも、あたしは観光したいわけじゃないの。昨日も今日も、一言もそんなこと言わなかったでしょ?観光の案内しかしない、っていうんだったら最初にそう申し出ておくべきだったんじゃないの?あんたが言ったのは〝案内をする〟ってことだけ。どこをどう案内させるかは雇い主に従うべきでしょ。あんたがどんな準備をしてきたかなんて関係ないの」

「っ……」

 言い返す言葉が見つからなくて、ペシェは唇を噛んだ。そう、確かに観光だなんて一言も言わなかった。それは事実だけれど、それを持ち出すのはズルい気がして仕方なかった。けれども、ズルい、だなんて言ってしまうのはいかにも子どもっぽい。

 そのふてくされた様子を見て、モモがもう一度溜息をついた。

「いい?あんたはお金をもらってるの。今日の分、ちゃんと払ったでしょ?その時点であたしはあんたの雇い主なのよ。昨日、あたしが〝イイ人〟だったのは、旅の行きずりでちょっと会話するだけの関係のつもりだったから。雇わないか、なんて言って関係性を変えちゃったのはあんたの方。にこにこ仲良く観光案内、なんてことができると思ってたなら、それはあんたが甘いのよ」

 今度こそ、反論は思いつかなかった。ペシェはふてくされた顔のまま、モモを追い越して歩き出した。ここで投げ出せば300ベラは手に入らない。

 額に浮かんだ汗をぬぐって、さっきよりも大股に歩く。裏通りでは会話がないことを気にしていたけれど、今はむしろ話しかけないで欲しかった。

 ペンキ問屋は工場街からそう遠くないところにあるようだった。カタログの住所を頼りに歩いて行くと、倉庫ばかりが並ぶ通りへ出た。運河が近いためだろう、水の臭いが漂っている。

 この辺りのはずなんだけど、とペシェがきょろきょろしていると、後ろから腕を引かれた。振り向くと、モモが黙って指をさしていて、その先に積み下ろし作業をしている荷車が数台止まっていた。荷車の側面に書かれた屋号は、カタログのものと同じだった。

「ちょっと行ってくるね」

「えっ!?」

 さっさと歩いて行ってしまうモモを、ペシェはまたしても慌てて追う。こんなの、ただの地図代わりじゃないか、と胸中でぼやいて、ハッとした。そうだ、別にこのくらいのこと、誰かに道案内してもらわなくたって何とでもなるのだ。地図を買えば大抵の店舗は載っているはずだし、保安官の派出所で尋ねれば金もかからない。

 モモは、荷車の近くで休憩をしているらしい若い男に声をかけていた。

「えぇ?透明な絵具?そんなの伝説の代物でしょー」

 けらけらと軽い笑い声。男は深い緑色をしたサイダー瓶を手元で弄んでいた。

「そうなんですかー?でも、伝説になるってことは、それなりに話題になり続けてたってことですよね?」

「まあねぇ。画家とか陶芸家とか、いわゆる芸術家?みたいな人たちは随分欲しがってたみたいだよ」

 へええ、と目を輝かせてモモは、男の隣にごく自然にサッと座った。

「手に入れた、っていう人の話は、知らないですか?」

「それ、知ってたら伝説じゃないじゃん」

「そうですけどぉ」

「っていうか、透明な絵具って何なんだろうなあ?何の役に立つの?水でいいじゃん水で」

「芸術家にしか価値がわからないから伝説になったんでしょうかね?」

「あー、なるほど、それはそうかもなあ」

 うんうん、とうなずく男に、モモはどう言葉をかけるのだろう。もう少し、情報を引き出したいと思ってるらしいことは、ペシェにもわかった。と、ふと思いついたように男が再び口を開く。

「案外、今でも作ろうとしてる人はいそうだよねー。ほら、あの爺さんとか。丘の上にアトリエ持ってた……。あ、随分前に亡くなったんだったかな、そういえば」

「アトリエ?」

 モモが身を乗り出す。ペシェは少し首をかしげた。男が言うようなアトリエとやらがこの街にあっただろうか。そのとき、荷車の影から、上司らしき大柄な男が姿を現した。

「おい。休憩終わりだぞ」

「あっ、すんません」

 若い男は慌てて立ち上がると素早く荷車の向こうの倉庫の中へ入って行った。

「……あんた、どこの誰だか知らんが、仕事の邪魔をせんでもらえるかな」

 大柄な男は、モモをチラッと見おろすと、低い声でそう言って、自分も倉庫の中へ入って行ってしまった。

 モモはちょっとだけ、倉庫の中を窺うような目をしていたけれど、すぐに立ち上がってペシェに身を寄せた。

「行くよ」

 どこへ、と訊きかえす間もなく、モモは先に立って歩き始める。

 なんだよもう暑苦しいブーツ履いてさ、とペシェは胸中で悪態をついた。同時に、ここにまで来てまだ悪態をついている自分が、情けなくなった。

「あの大きな男の人の方が何かもっと詳しく知ってそうだったよね……。訊き出したかったところだけど、しょーがないか」

 足早に倉庫から遠ざかると、モモは肩をすくめた。適当なところで速度を落とし、ペシェがついてきていることを確かめるように、ちょっと振り返った。

「丘の上のアトリエ、ってどこだかわかる?」

 それについては、ペシェもさっきから考えていたことだった。アトリエ、という言葉自体、慣れないものであったし、そんなものがパニーの街にあるとも思えなかった。

「アトリエなんてものは、心当たりがないんだけど……、丘っていうのはたぶん、あそこのことだと思う……」

 あそこ、と言いながら、西の方角を指さした。子ども用のスープ皿を伏せたような形の、なだらかな丘だ。あの丘を越えると、そこはもう隣の街になる。

「ふうん……。今から行けば、まあ夕方までには戻って来られる距離か……」

「えっ、でも、あの丘にアトリエなんてないよ!僕、何度も行ったことがあるけど、そんなの見たことないよ!」

「絶対にない、と言えるほどペシェはあの丘に詳しいの?」

「そ、それは……」

 そう切り返されると言葉に詰まる。確かに、絶対にないとは言い切れない。丘には何度も遊びに行ったことがあるけれど、大抵は頂上まで行かずに帰ってきていたし、丘を越えるとそこはもうパニーではない、ということがペシェを気おくれさせて、頂上から向こうへは行ったことすらないのだから。

「行ってきちんと調べてみないことには、納得できないよねー。今のところ、手がかりこれしかないし」

「っていうかさ、さっきから何なの?透明な絵具っていうのは」

「ナイショ。仕事だから」

 モモは涼しい顔でそれだけ言うと、西に向かってさっさと歩き出す。

「丘への案内は、できない?」

 視線だけでペシェを見た。その黒い瞳が、きらりとした。

「できるよ!」

 ムッとして、ペシェは必要以上に顎を上げた。ずんずんモモを追い越して、脇道に入る。

「こっちの方が近道だ」

「さすが」

 モモは今日はじめて、ペシェに向かって笑った。

 

 

 

※次回の更新は11/20の予定です。