連載第二回 透明な絵具
翌日の朝8時ちょうどに、時計広場へ行くと、モモはすでにやって来ていた。ペシェの顔を見るとちょっと眉を動かしたが、何も言わなかった。昨日の、親しげな感じとは随分違う。
「おはよう……」
「おはよう」
挨拶は返してくれたので一応は安心して、ペシェは営業スマイルというやつをやって見せた。昨夜、鏡の前で何度も練習したのだ。それに、観光スポットもチェックしてきた。自分の街の観光スポットというのは案外、知らないものだな、と思ったものである。
「さあ、モモ!どこへ行きたい?一番のおススメは展望台、それから噴水広場だよ!」
「……この街に画家はいない?もしくは、工芸工房」
「画家……?」
モモはごく平坦に言った。ペシェは戸惑いつつもそれについての代案を考える。画家の知り合いなどいない。
「えっと、絵が見たいなら、美術館が、噴水広場の近くに……」
「美術館じゃダメ。画廊とか、ペンキ屋でもいいわ、知らないの?」
「ペンキ屋、っていうか……、看板工房なら……」
「じゃあ、とりあえずそこでいい。案内して」
「え、でも」
何が目的で、と尋ねようとしたペシェを遮るように、モモは腰のポーチから硬貨を取り出して見せた。
「とりあえず、今日の分として60ベラ前払いしておく。残りは無事に五日間が終了してから。日払いが良ければ毎日60ベラずつ払ってもいいけど。どっちにする?」
ごくっ、と喉を鳴らして、モモの手のひらの上の硬貨をみつめた。親から、お小遣いとしてもらう以外で金を手にするのは初めてだ。おそるおそる受け取ってから、ペシェはモモの顔を見ることなく答えた。
「残りは最終日にもらいます」
「……あ、そ。じゃ、行きましょう。どっち?」
硬貨をしっかりと鞄にしまって、ペシェは先に立って歩き出した。看板工房は裏通りを抜けたところの、工場街にある。
裏通りは煉瓦製の建物が隙間少なに建っている所為か、薄暗くて真夏でもひんやりしている。恐ろしい、という印象はないものの、用もなく一人でうろうろしたくはないところだ。けれど、たとえ二人で歩いていたとしても、その二人の間に会話がなければ一人で来た方がマシというものかもしれない。
モモは、一言も発することなく前を行くペシェについて来た。ペシェは、街の観光スポットを紹介するセリフでその沈黙を破ろうかと思ったが、気まずさに飲まれて声を発することができなかった。そもそも、こんな裏通りで観光スポットの紹介もないものだ。
昨日出会った時には明るくて、どちらかというとおしゃべりな人、という印象だったのに、今日は様子が随分と違う。第一印象があてにならない、というのはこういうことなのだろうか。
そうして沈黙が保たれたまま、裏通りを抜ける。太陽の光をたっぷり受けた、広々とした通りに出た。道には舗装がなく、馬車の轍がくっきりと見えた。
「その、角から三つ目だよ」
「工房の人の中に、知り合いはいる?」
ペシェは首を横に振った。場所の案内はできたけれど、ペシェ自身は工房とは何の付き合いもない。何度か工房の前を通ったことがある程度なのだ。知り合いはおろか、挨拶をしたことのある人がいるかどうかも怪しい。
「そう」
モモはさして問題はない、と言うようにうなずいて、どんどん工房目指して歩いて行った。ペシェは慌てて小走りにそれを追う。
工房の広い入り口は開け放たれていて、通りにまでペンキの臭いが流れていた。覗き込まなくても刷毛を持った職人たちの仕事ぶりが見える。
戸口、というよりは道と工房の境目に立って、モモは職人の中でも一番年かさの男に声をかけた。
「ごめんください」
「はい?」
振り向いた男は丸顔で、少し白髪の混じった口髭をたくわえていた。モモを見て、少し驚いたような目をする。
「ちょっとお尋ねしたいんですけれど、こちらで使われているペンキ類は、どちらで仕入れていらっしゃるんでしょうか」
「どちらで、って、問屋からまとめて仕入れてるんだけど」
「ここで作ったりはしてないんでしょうか」
「ペンキを作るのは無理だなあ。俺たちゃ、ペンキを塗るのが仕事だから。ペンキを混ぜて色を作ることは、よくあるけどよ」
モモは、ふむふむ、といかにも興味深い、というように熱心な表情で聞いている。
「一番良く使う色は、何ですか?」
「んー、そうだなあ、今年は赤かねえ。毎年、流行が違うんだ」
「なるほどー。……透明、というのは、どうなんですか?」
「透明?」
男が怪訝そうな顔をする。モモはどこまでも熱心そうな、邪気のない笑みのままだった。
「はい。透明なペンキ、っていうのはないんですか?」
「あっはは、お嬢ちゃん、透明、というのは色に入らねえんだよ。仕上げに塗る、上掛ニスなら透明だが、あれはペンキじゃないからなあ」
「あ、そっか!」
男がうはは、と大きく笑って、周囲で作業をしていた職人たちも笑った。
「すみません、あたし、何も知らなくて。あの、もしよかったら、その問屋さんの場所を教えていただけませんか」
「いいけど、あそこは小売りしないかもしれないぞ?つーかお嬢ちゃん、ペンキで何すんだ?」
「自分の家の壁を、塗りなおそうかと思って」
「へえ?自分で?」
片眉を持ち上げて笑顔を作ると、男は工房の奥から薄い冊子を持ってきてモモに手渡した。
「これ、その問屋のカタログだ。内容は古いんで役に立たねえけど、住所は変わってないから、いいよな?」
「はい、充分です。ありがとうございました」
ぺこり、と深々お辞儀をするモモに、職人たちがにこにこ手を振る。壁塗り失敗したらまた来いよー、とか言う声に、モモも手を振りかえして、工房から離れた。
ペシェは、その一部始終をただ突っ立って眺めていた。モモが歩き出すのを、慌てて追う。
「ダメか。まあ、最初から上手くはいかないよね」
工房で話していた声よりもだいぶトーンを落としてモモは呟き、ペシェを振り返ってカタログの住所のページを見せた。
「ここ、わかる?」
「あ、うん……。番地、わかんないけど、近くまでは」
「じゃ、よろしく」
短く言うとまた背を向ける。ペシェはムッとして立ち止まった。この態度の変わりようは何だというのか。あまりにもひどい扱いではないか。
「……どうしたの?案内してよ」
ペシェが動こうとしないのに気がついて、モモが振り返った。
「自分の家の壁を塗りなおす、なんて嘘なんだろ」
「……そうだけど?それが?」
平然と言い返されて、ちょっと詰まった。ペシェが引っかかりを感じているのは、本当はそこじゃない。
「う、嘘つきの案内はできない。何が目的でパニーに来たのか、最終的にどこへ案内させようとしてるのか言ってもらわないと」
「それ、契約の条件に入ってたの?なんで最初に言わないわけ?」
「そ、それは……」
「お金払ってからそういうこと言い出すのはおかしいんじゃないの?」
ペシェの苦し紛れのセリフは、モモの正論すぎる冷静さにすべて打ち返されてしまった。それでも、この扱いは不当だということだけは伝えたくて、声を大きくする。
「モモは不思議な人だけど、悪い人じゃないと思ったから案内を申し出たんだ!ここのこと何もわかってないみたいだったし、観光するにも困るだろうと思って……!たくさん、案内のセリフとか歴史とか、喋れるようにしてきたのに、なんかわけわかんないところにばかり!えらそうに命令するばっかりで僕の話を聞いてもくれないなんて、いくらなんでもヒドイよ!」
「……あのさあ」
言いたいことを全部ぶちまけたペシェを見おろして、モモは溜息をついた。
「それの、なにがどうヒドイわけ?」
「なっ?」
一蹴された。モモが両手を腰に当てる。
「そもそも、あたしは観光したいわけじゃないの。昨日も今日も、一言もそんなこと言わなかったでしょ?観光の案内しかしない、っていうんだったら最初にそう申し出ておくべきだったんじゃないの?あんたが言ったのは〝案内をする〟ってことだけ。どこをどう案内させるかは雇い主に従うべきでしょ。あんたがどんな準備をしてきたかなんて関係ないの」
「っ……」
言い返す言葉が見つからなくて、ペシェは唇を噛んだ。そう、確かに観光だなんて一言も言わなかった。それは事実だけれど、それを持ち出すのはズルい気がして仕方なかった。けれども、ズルい、だなんて言ってしまうのはいかにも子どもっぽい。
そのふてくされた様子を見て、モモがもう一度溜息をついた。
「いい?あんたはお金をもらってるの。今日の分、ちゃんと払ったでしょ?その時点であたしはあんたの雇い主なのよ。昨日、あたしが〝イイ人〟だったのは、旅の行きずりでちょっと会話するだけの関係のつもりだったから。雇わないか、なんて言って関係性を変えちゃったのはあんたの方。にこにこ仲良く観光案内、なんてことができると思ってたなら、それはあんたが甘いのよ」
今度こそ、反論は思いつかなかった。ペシェはふてくされた顔のまま、モモを追い越して歩き出した。ここで投げ出せば300ベラは手に入らない。
額に浮かんだ汗をぬぐって、さっきよりも大股に歩く。裏通りでは会話がないことを気にしていたけれど、今はむしろ話しかけないで欲しかった。
ペンキ問屋は工場街からそう遠くないところにあるようだった。カタログの住所を頼りに歩いて行くと、倉庫ばかりが並ぶ通りへ出た。運河が近いためだろう、水の臭いが漂っている。
この辺りのはずなんだけど、とペシェがきょろきょろしていると、後ろから腕を引かれた。振り向くと、モモが黙って指をさしていて、その先に積み下ろし作業をしている荷車が数台止まっていた。荷車の側面に書かれた屋号は、カタログのものと同じだった。
「ちょっと行ってくるね」
「えっ!?」
さっさと歩いて行ってしまうモモを、ペシェはまたしても慌てて追う。こんなの、ただの地図代わりじゃないか、と胸中でぼやいて、ハッとした。そうだ、別にこのくらいのこと、誰かに道案内してもらわなくたって何とでもなるのだ。地図を買えば大抵の店舗は載っているはずだし、保安官の派出所で尋ねれば金もかからない。
モモは、荷車の近くで休憩をしているらしい若い男に声をかけていた。
「えぇ?透明な絵具?そんなの伝説の代物でしょー」
けらけらと軽い笑い声。男は深い緑色をしたサイダー瓶を手元で弄んでいた。
「そうなんですかー?でも、伝説になるってことは、それなりに話題になり続けてたってことですよね?」
「まあねぇ。画家とか陶芸家とか、いわゆる芸術家?みたいな人たちは随分欲しがってたみたいだよ」
へええ、と目を輝かせてモモは、男の隣にごく自然にサッと座った。
「手に入れた、っていう人の話は、知らないですか?」
「それ、知ってたら伝説じゃないじゃん」
「そうですけどぉ」
「っていうか、透明な絵具って何なんだろうなあ?何の役に立つの?水でいいじゃん水で」
「芸術家にしか価値がわからないから伝説になったんでしょうかね?」
「あー、なるほど、それはそうかもなあ」
うんうん、とうなずく男に、モモはどう言葉をかけるのだろう。もう少し、情報を引き出したいと思ってるらしいことは、ペシェにもわかった。と、ふと思いついたように男が再び口を開く。
「案外、今でも作ろうとしてる人はいそうだよねー。ほら、あの爺さんとか。丘の上にアトリエ持ってた……。あ、随分前に亡くなったんだったかな、そういえば」
「アトリエ?」
モモが身を乗り出す。ペシェは少し首をかしげた。男が言うようなアトリエとやらがこの街にあっただろうか。そのとき、荷車の影から、上司らしき大柄な男が姿を現した。
「おい。休憩終わりだぞ」
「あっ、すんません」
若い男は慌てて立ち上がると素早く荷車の向こうの倉庫の中へ入って行った。
「……あんた、どこの誰だか知らんが、仕事の邪魔をせんでもらえるかな」
大柄な男は、モモをチラッと見おろすと、低い声でそう言って、自分も倉庫の中へ入って行ってしまった。
モモはちょっとだけ、倉庫の中を窺うような目をしていたけれど、すぐに立ち上がってペシェに身を寄せた。
「行くよ」
どこへ、と訊きかえす間もなく、モモは先に立って歩き始める。
なんだよもう暑苦しいブーツ履いてさ、とペシェは胸中で悪態をついた。同時に、ここにまで来てまだ悪態をついている自分が、情けなくなった。
「あの大きな男の人の方が何かもっと詳しく知ってそうだったよね……。訊き出したかったところだけど、しょーがないか」
足早に倉庫から遠ざかると、モモは肩をすくめた。適当なところで速度を落とし、ペシェがついてきていることを確かめるように、ちょっと振り返った。
「丘の上のアトリエ、ってどこだかわかる?」
それについては、ペシェもさっきから考えていたことだった。アトリエ、という言葉自体、慣れないものであったし、そんなものがパニーの街にあるとも思えなかった。
「アトリエなんてものは、心当たりがないんだけど……、丘っていうのはたぶん、あそこのことだと思う……」
あそこ、と言いながら、西の方角を指さした。子ども用のスープ皿を伏せたような形の、なだらかな丘だ。あの丘を越えると、そこはもう隣の街になる。
「ふうん……。今から行けば、まあ夕方までには戻って来られる距離か……」
「えっ、でも、あの丘にアトリエなんてないよ!僕、何度も行ったことがあるけど、そんなの見たことないよ!」
「絶対にない、と言えるほどペシェはあの丘に詳しいの?」
「そ、それは……」
そう切り返されると言葉に詰まる。確かに、絶対にないとは言い切れない。丘には何度も遊びに行ったことがあるけれど、大抵は頂上まで行かずに帰ってきていたし、丘を越えるとそこはもうパニーではない、ということがペシェを気おくれさせて、頂上から向こうへは行ったことすらないのだから。
「行ってきちんと調べてみないことには、納得できないよねー。今のところ、手がかりこれしかないし」
「っていうかさ、さっきから何なの?透明な絵具っていうのは」
「ナイショ。仕事だから」
モモは涼しい顔でそれだけ言うと、西に向かってさっさと歩き出す。
「丘への案内は、できない?」
視線だけでペシェを見た。その黒い瞳が、きらりとした。
「できるよ!」
ムッとして、ペシェは必要以上に顎を上げた。ずんずんモモを追い越して、脇道に入る。
「こっちの方が近道だ」
「さすが」
モモは今日はじめて、ペシェに向かって笑った。
※次回の更新は11/20の予定です。