カグの樹の脚

つばめ綺譚社の紺堂カヤの小説『カグの樹の脚』を連載形式で順次公開してゆきます。

連載第三回 ドーナツとネクターと

 近道と言ったのは嘘ではないけれど、脇道を選んだのには別の理由もあった。丘に向かうにはペシェが通う学校を越えて行かなければならない。通学路になっている大きな道の周囲は、同級生たちに出会う確率が高かった。できるかぎり、遭遇は避けたい。

 どんなに避けても一度は出なくてはならない道ではあるのだが。

 その道へついに出たとき、ペシェは我ながら不自然と思えるほど周囲をきょろきょろと気にしていた。ちょっと考えてみれば、とっくにどこかで見られていたとしても不思議ではなかったのだから、今更気にしても仕方がないと言えば仕方がないのだが、一度気になってしまうと途端に不安になるものだ。

「ちょっと待って」

 モモにそう呼び止められたとき、その不審な様子を見咎められたものと思って、ペシェの背中は強張った。

 けれども、そんな心配をよそにモモは道の脇の屋台に近づいて行くと、茶色い袋をふたつとネクターが入っているらしい瓶を2本抱えて戻ってきた。ひとつをペシェに差し出す。

「はい。お腹空いてきたから」

「え、でも……」

「いーから。案内中の食事代は必要経費よ、雇い主が持つもんなの。それとも歩きながらの食事は嫌ってこと?」

 ペシェは首を横に振って、袋を受け取った。あたたかい。中身は、じゃがいもドーナツだった。懐中時計くらいの大きさの、平たい円形のドーナツが、一袋に5個。ひとつ取り出して齧りつきながら、ペシェとモモは再び歩き出す。

「なかなか美味しいね、これ」

 モモは満足そうである。パニーでは一般的な軽食だが、よそでは違うのかもしれない。そもそも、本当に、モモは何者なのだろうか。異世界人、だなんていうのはペシェをからかうための言葉だったのに違いないけれど、それにしても。

 ペシェがその問いをモモに投げかける前に、モモの方からペシェに問われた。このタイミングを待っていた、いや、待っていてくれたんだろうというのは、ペシェにもわかった。

「で?300ベラが必要な本当の理由って何?」

「げほっ」

 ここでじゃがいもドーナツを喉に詰まらせてむせてしまった時点で、ペシェの敗北は決まっていたようなものなのだが、悪あがきをせずにはいられない。

「ほ、本当の、って……。だから僕は」

「日常的に働いてる者は、あんな穴だらけの契約で仕事請け負わないっつの。いくら子どもでもね。軽々しく生活のため、とか言うんじゃない」

 ぴしゃりと一蹴されて、ペシェは一言の反論もできずに黙った。

 黙って……、夏休みに入る直前の出来事を思い出した。

 物が壊れる、絶望的に美しい音。初めて間近で見た、人の顔がみるみる蒼白になっていく様子。

「……学校の、玄関の壺を割ったんだ。だからそれを、弁償しなくちゃいけないんだ」

 それだけを言って、ペシェはじゃがいもドーナツをもうひとつ食べた。モモはそれに対して何を言うわけでもなく、自分もドーナツを食べ続けた。

 丘が近くなるにつれて民家はまばらになり、道も舗装されたものではなくなっていく。デコボコした地面の細い道を、ペシェのひざ下あたりまで青々と伸びた夏草が縁取っていた。

 ペシェがドーナツを食べ終わったのを見計らって、モモがネクターの瓶を差し出した。甘いネクターはよく冷えていて美味しかった。

 ふと横目で眺めると、モモも美味しそうに瓶に口をつけていた。このひとは本当に、何者なのだろうか、とペシェはまた思った。また思って、けれど今度は、何者でも構わない気がした。

「掃除当番だったんだ」

 呟くように、ペシェは話し出していた。

「僕と、メロと、ポムとノイエの四人で、学校の、来客用の玄関の掃除当番だったんだ」

 来客用の玄関は校長室の脇にあり、児童生徒が利用することのない、つまりはペシェたちが普段まったく近寄ることのないところだった。長期休みの直前にだけ、児童生徒に割り当てられることになっている掃除場所で、四人の少年たちは妙にはしゃいでいた。いつもメロをからかってバカにしているポムとノイエのことを、ペシェは良く思っていないのだが、あまり気にならなくなるくらいには、気持ちが浮き立っていた。

 来客用の玄関はとにかく魅力的だった。扉は飴色の高級そうな木材でつくられていたし、天井にはタイル細工で百合の花が描かれていたのが実に見事だった。それに何より、玄関を入った正面には飾り棚があって、蝶の標本箱とか、年代物のランプとか、ペシェたちの興味をそそるものがたくさん置いてあったのだ。

「そこではしゃいで、飾り棚にあった壺を割ってしまった、というわけ?」

 モモは、なんだか納得できない、というような声を出した。ペシェはゆるく、首を横に振った。その言い方は間違いではないけれど、正しくもない。

「ポムとノイエがあまりに騒がしかったんで、先生が、飾り棚のものは僕とメロで磨くように言いつけたんだ。ポムとノイエは、掃き掃除をするように、って。それが気に入らなかったんだと思う。先生が立ち去ってから、やつら、箒をおおげさに振り回し始めて……」

 下手に取り合えば刺激するだけだとわかっていたから、ペシェはできるだけ二人を無視して飾り棚の掃除に集中した。が、振り回されている箒がいつこちらに向けられるか、標本箱やランプをなぎ倒してしまわないかと気が気ではなかった。

 そして、全然相手にされないことに苛立ったノイエが、メロに向かって箒を振り上げたときに、それは起こった。

 メロが驚いて、よろめいた拍子に、壺に肘が当たって床に落ち、砕け散ったのである。黄色い鳥が翼を広げている様子が描かれた壺だった。

「メロは少し、足が悪いんだ。それをわかっててやったんだから、絶対にノイエが悪い。なのに、壺が割れたのはメロがとろい所為だ、なんて言うから」

 壺が割れたのを見て、メロの顔はみるみる蒼白になっていった。それを見て、ノイエは笑っていた。ペシェにはそれが、何よりも邪悪な笑顔に見えた。ペシェの頭に、カッと血が上った。

 いつの間にかポムが先生を呼びに行っていたらしく、駆け付けられたときには、メロは割れた壺の目の前で茫然としており、ペシェは……、ノイエに馬乗りになって殴りかかっていた。

「あーあ……。そりゃまたマズいタイミングだったね」

 モモが顔をしかめる。

「で、その壺の弁償代が300ベラ?」

「うん……。先生は、メロの親に知らせる、って言ったんだ。だけど、それだけはやめてくれ、って頼んで……。僕が必ず弁償するから、って。古道具屋で、同じ壺を売っているのを見たことがあったから」

 メロの家は、メロの足の治療費を出すために、家族総出で働いている。壺のために300ベラ出して欲しいなんて、メロにはとても言えないに違いなかった。

「メロはひょこひょこ、つっかえたようにしか歩けないから、ポムやノイエはいつもそれをバカにしてたんだ。でも!走れなくても、泳げなくても、メロはあいつらの誰よりも賢いし、優しいし、それに、絵が上手なんだ!だから、だから……」

 不意に泣きそうになって、ペシェは唇を噛んだ。感情が高ぶっているのが自分でもわかった。

「大事な友だちなんだね、メロは」

 モモが、静かに言った。偉かったね、と褒めることもなく、そんなことまでしなくても、と呆れるでもなく、壺を割ったことを叱るでもなく、ただ、そう言った。ペシェは、黙って深くうなずいた。

「よぉっし。じゃあ張り切ってその300ベラ、稼いでもらおうじゃないの!」

 モモが大きな声を出したすきに、ペシェはこっそり鼻を啜りあげた。

「うん」