カグの樹の脚

つばめ綺譚社の紺堂カヤの小説『カグの樹の脚』を連載形式で順次公開してゆきます。

連載第十二回 身代わり

 モモは目が覚めると、起き上がるのを試みる前に体の自由が奪われていることに気が付いて、大きくため息をついた。腹がひどく傷む。みぞおちに拳を一発、という実にシンプルな方法で気絶させられたものらしい。手首を麻紐のようなもので固く結ばれている。背中に回された状態で縛られているため、手首よりもむしろ肩の痛みの方が勝った。どこかに閉じ込められているらしいが、窓もなければ光源になるようなものもなく、どこにいるのかはおろか、今が一体どのくらいの時刻になるのかすらわからない。

 迂闊だった。完全に、モモの油断が原因だ。軽く舌打ちして、エルマーの癖がうつったかも、と思ったら少し笑えた。と、その瞬間に暗闇が一筋だけ、光に切り取られた。

「この状況で笑えるとはな。よっぽど鈍感なのか、それとも救えぬほどの阿呆か、どちらだ?」

 扉が開かれて、そこからぬっと黒い影が現れた。顔を確認することはできないが、声からロベンだと判断した。

「それ、どっちの方がマシなのかよくわかんないんだけど?」

 ふん、と鼻で笑って、モモは黒い影でしかないロベンを睨みあげた。影でしか見えない、というのは嫌だな、と思う。腹の奥がぞわぞわする感じだ。思い出す必要のないことを思いこさせるような。

「そんなことより、ここどこ?あたし、なんで縛られてるわけ?」

「以外に冷静だな、お前。もう少し喚きたてるかと思ったんだが」

「質問に答えなよ」

 冷静だから、喚きたてないから、モモが怒っていないとでも思っているのだろうか、この男は。バカにされている、というのはとうにわかっていたことだとはいえ、ここまで侮られるいわれはない。

「口のきき方に気をつけろ、このツギハギが。お前自身が言ったのだからな、ポタラの役に立てるなら何の損もない、と」

「それが縛られてることの説明になってると本気で思ってる?大体、何の損もない、と言えるのは情報がもらえたら、の話でしょ?そっちの都合がいいように端折ってんじゃないっての」

「情報、ね……」

 今度はロベンが鼻で笑う。さすがにカチンときて、モモはロベンにも聞こえるように大きく舌打ちした。

「行儀の悪い娘だな、やはり。情報なら約束通り、くれてやるさ。教える、というよりは見せる……、いや、体験させる、と言った方がいいか」

「は?どういう意味……」

「立て。移動だ」

 モモの言葉をさえぎって、ロベンはモモの肩と腕をつかんで乱暴に立たせた。

「ちょっとぉ、痛いなあ!」

 至極まっとうな抗議の声は至極当然のように黙殺され、モモは幌のかかった馬車に乗せられた。馬車にはすでに数名の男が乗っていて、モモを値踏みするように見てから、素早く視線を逸らした。ロベンだけは馬車に乗らず、外から馬車を揺さぶるように幌をつかんで中を覗き込むと、この男たちをギョロリとねめつけた。口調だけは不自然なほど丁寧だった。

「約束通り、代わりの娘をお連れしました。この地方どころか、ホウル国の者でもありません。不都合はないだろうと思いますが」

 全員が黒っぽい服装の男たちはサッと目配せを交わしてうなずく。

「よかろう。庁舎で書類に捺印したら、任務は完了だ」

ポタラは」

「お前の女は庁舎の応接室にいる。拘束も一切してはいない、連れて行け」

 それを聞いたロベンは男たちに一礼すると、モモには一言もなくその場を去った。

「……えーっと……」

 後に残されたモモは、とりあえず、馬車の中の男たちの顔をぐるっと見回した。目を合わせようとする者はほとんどいない。

「要するに、あたしはポタラの身代わり、ってことだ?いや、要するにって言っても全然わかってないんだけどさ」

 モモが少しもおびえた様子を見せず、むしろ気軽な口調でこんなことを言うものだから、男たちは少なからず拍子抜けしたようだった。

「まあ、そういうことだな。……出せ」

 代表格らしき男の合図で、馬車が走り出した。ゴトゴトという振動がモモの体を、ブーツに包まれた義足を揺らす。

「うーん、じゃあ、まあ、仕方ない、のか?いや、仕方なくはないか……。えっと、あの、身代わり、はわかったんだけど、あたしこれからどうなるんでしょうね?」

「それを訊いて、どうするんだ」

「どうもしませんけど。捕まって縛られちゃってるんだからどうもできないし……。ただまあ、自分の行く末くらい知っておきたいかなあ、って」

 モモが引きつった笑みを浮かべると、男たちの表情は多少和らいだ。

「なるほど。そう心配することはない。ただ少し、トルネリコの枝から吊るすだけだよ」

「……はい?吊るす?」

 演技でもなんでもなく、モモはきょとんとした。意味がわからなさすぎる。

「えーっと、できればもう少しわかりやすく説明していただけますでしょうかね……。皆さまはいわゆる、議会派、というやつなんですよね?」

「ほう、そのあたりの事情を知っているとなれば説明はそう難しくない。そのとおりだ。我らは、あの前時代的なトルネリコを廃すために動いている」

「ああ、やっぱりそうですか。トルネリコを切り倒そうとしている、なんて噂を聞きましたけども?」

「それは噂にすぎんよ。まあ、可能であるならそれが一番手っ取り早いがね。だが、あれだけの巨大樹を切り倒すというのは容易ではないからな」

 何がおかしいものか、ぱらぱらと笑いが起こる。モモは今度はしっかり意識をした演技できょとんとした表情を維持した。

「えーっと、切り倒さず、あたしを吊るすことで、その、トルネリコを廃すことはできる、と?一体どういうわけで?」

「〝トルネリコは生贄に若い娘を捧げることを求める非人道的な支配者である〟と知らしめるのさ。これで世論は、一気に、圧倒的に、議会派に傾く」

 昂然と胸を逸らして放たれたセリフに、周囲から拍手が巻き起こった。モモは湧き起ってくる乾いた笑いを抑えられずにぼそりと呟いた。

「……非道を知らしめる、っつーか非道であるとでっち上げる、ってことだ……?」

 幸いにして聞かれていなかったようで、勢いづいた彼らは口ぐちに、得意げに、計画と思惑を語りだした。

「誰がどう考えても、樹木の声に従って人間の政治を行うなどという体制はおかしい。政治というのは、人のために、人が手を尽くして行うべきものだ。より多くの人の意見を反映させ、自分たちの手で動かしていかなければならないものだ。だが、その理屈を受け入れない者も、残念ながら存在するんだよ」

「正論を説いても動かない者を動かすには、彼らの信ずる対象を貶めてしまうのが一番効果的なんだ」

「トルネリコを物理的に傷つけることはせずに、議会派の実権を揺るがぬものとできる。これこそ、人道的といっていい方法なんだ」

 モモは、言葉を返すことができなかった。うなずくことも、できなかった。どちらが正しいと、モモが評価できる問題ではないのだ。

 トルネリコの声を、言葉を、思い出した。「彼らはもうひとりで立てる」「人同士で支えあわねば」そう言っていた。トルネリコも、いや、トルネリコこそが、わかっている。己の出番はもう終わったのだ、と。

 そう、トルネリコはわかっている。

「ああ……、そうか……」

 モモは思わず、口に出していた。この発言を議会派の男たちは、自分らへの理解と見たらしい。そうか、わかってくれるか、などと言って喜色をあらわにした。モモはゆるく首を横に振ってそれを否定すると、きょとんとした顔の芝居をやめて静かに口を開いた。

「ひとつ、確認させていただきたいのですが。あたしは、ただ吊るされるだけなんですよね?本当に生贄として死ななければならないなんてことは、ありませんよね?」

「もちろんだ、命の保障はする」

 代表格の男が、力強く即答したのを聞いて、モモははあ、と息をつくと、全員の顔を順番に眺めた。ここで初めて、男たちの総数を把握した。彼らは全員で5人だった。

「わかりました。あたしは、あなた方がやろうとしていることに賛同するわけじゃありません。でも、積極的に邪魔もしません。少なくとも、トルネリコに吊るされるまでは逃げたり、暴れたりはしないことをお約束します」

「感謝する」

 モモの言葉に偽りはないと判断してくれたらしい彼らは、モモの手首を縛っていた麻紐を解いてくれた。

 それからほどなくして、馬車が動きを止めた。幌をくぐって外へ出ると、もうずいぶんと日が落ちかけていて、橙色の空気がモモを包んだ。そんなに時間がたっているとは思わず、ああエルマー怒ってそうだなあ、なんて苦い気持ちになる。

 周囲をよく見ると、頭上、それもずいぶん高いところにトルネリコの立ち姿が見えた。どうやら昨夜モモとエルマーが警備していた、広場のようなところの裏側に回ってきているようだった。ここからトルネリコの根元にたどり着くには、相当に急な傾斜を登って行かなければならない。

「トルネリコ派の人々は正面の警備はしっかり固めているが、裏側であるこちらはまったくなのだ」

「でも、それもそのはず、という感じがしますが。この傾斜を登って行くのはかなり難しいのでは?」

「登って行くのであれば、な」

 妙な含みを持たせたセリフを聞いて、モモが怪訝な表情をすると、男たちはモモに傾斜を少しだけ登らせて、そこに立っているように指示をした。そして、モモの両手首と、腰にしっかりとロープを縛り付ける。

「え?ここで縛るの?」

「そうだ。このロープは、いくつもの滑車に通してある。合図で順番にロープを引っ張っていくと、君の体が浮き上がって、トルネリコの正面に吊るされるようになっているのだ」

「はー、そりゃまた大がかりなことで……。よく相手側にバレずに準備しましたねえ?……ああ、協力者がいたのか」

 モモは素直に感心しただけのつもりだったのだが、議会派の皆さまは皮肉を言われたとでも思ったのか、誰もが少しバツが悪そうにした。

「体が上がりきって、正面までたどり着けば、背中がしっかりトルネリコの幹にくっつくようになっている。ただ、上がっていく途中はかなり痛い思いをさせることになるだろう」

「ああ、わかりました」

「……あっさりしているな、君は」

 申し訳なさそうに説明していた男が、平然としているモモをしげしげと眺めた。モモは、ちょっと笑う。

「実際に脚を斬り落とすのに比べたら、たいした痛みじゃないだろうから」

 男は一層、怪訝な顔をした。モモはそれ以上のことは言わず、ただ微笑んだ。

「どうぞ、いつでも始めてください」

 代表格の男がうなずき、片手をあげて合図を送る。たわんでいたロープが徐々に張りつめ、ぐ、と力がこもったかと思うと、モモの体がゆっくりと持ち上げられ、ブーツが地面を離れた。そのまま上昇しつつ、ゆるやかな弧を描いて回転し、モモの体はトルネリコを半周する形で正面へと近づいていった。縛られた両手首と腰は、引っ張られていることと己の体重をそれだけで支えていることから、ぐりぐりと痛んだが、我慢できないほどではなかった。……モモの痛覚では。

 痛みよりも、跳ぶことなく自分の体が宙に浮いていることの方が、ひどく違和感だった。

 視界の端に、広場の隅に建てられた小屋が見えた。昨夜、モモとエルマーが警備に詰めていた小屋だ。エルマーはたぶん今も、あの中にいるはずだった。

「気が付くかな……」

 まさかこんな方法でトルネリコの前に現れる者がいようとは思っていないはずだし、さらには、それがモモであるなどとはもちろん、考えていないだろう。考えているとしたら、こんな時間になっても帰ってこないとはいったいどういうことか、とそれだろう。

 空はだいぶ赤みをなくして、闇を迎え入れようとしていた。

 モモはトルネリコの太い太い幹に背中を預けた。正面にして中央に、まるで抱きとめられるようだった。吊り下げられる、というよりは磔になっているような恰好だ。キリストみたい、と思ったけれど、きっと誰にも通じないんだろうな、とも思った。エルマーですら、モモが生まれた世界の宗教のことまで知識を持っているとは思えない。

「まあ、あたしにも知識があるわけじゃないんだけど」

 ぼそりと呟いて、ちょっと笑った。クリスマスにケーキは食べたけど、なんて、なぜ今こんなことを思い出しているのだろう。

 なんだか、胸が騒いだ。

 昨日初めてトルネリコの前に立ったときも、今朝の夢の中でも、こんなに落ち着かない気分にはならなかった。むしろ安心感すら覚えたくらいだというのに。

 なんだろう。何が始まるというのだろう。……いや、終わるのか。寒気さえ這い上がってきた気がして、モモは身震いした。

 吊り下げられて自然と下を向きそうになる目を、しかしモモは持ち上げた。悠然と広がる、トルネリコの枝。暮れゆく空を優しくかき混ぜるように揺れて、さらさらと葉が囁く。

 すわっとした浮遊感が、モモに訪れた。