カグの樹の脚

つばめ綺譚社の紺堂カヤの小説『カグの樹の脚』を連載形式で順次公開してゆきます。

連載第十四回 脚

「その答えすら、私にはもう差し出せない」
 口が、勝手に動いた。けれど不思議と、体が乗っ取られているとか、操られているというような感じはなかった。
「ただ、これだけは」
 自分にこんな声が出せるとは思わなかった、と驚き、そして気恥ずかしくなるほど優しげな響きでモモは、トルネリコの言葉を発した。
「皆をとても、いとおしく思う。今までも、これからも」
 ああ、と地上で誰かが泣き崩れた。
 嘆きであると言い切ってしまうことの難しい、あらゆる感情と思い出が凝縮された涙だと、思った。思ったけれどモモには、この思いが自分のものであるのかトルネリコにものであるのか、判断がつかなかった。
〝ありがとう〟
トルネリコが、モモの口を使うことなく、そう言った。おそらくは、モモにしか聞こえていない。
「これで、よかったの?」
 とモモは言ったけれど、実際に声が出ているかどうか自信がなかった。
 〝ええ。これで、充分〟
「直接、全員の頭の中に聞かせてあげたらよかったのに。あたしが勝手な演技をしたんだ、って感じる人も、絶対いると思うけど」
 〝そう感じた人にとっては、それが真実なのだから、それでいいの。何を聞くかは、皆、自分で選ぶのだから〟
「そっか」
 〝だから、あなたも選ぶの〟
「え?」
 〝ちゃんと聞いて。聞こえるはず。聞こえているはず〟
「何の、話……」
 トルネリコは、これまでモモに何度も言っていた。初めて目にしたときも、夢の中でも。ちゃんと聞いて、と。
 〝聞かないことを選ぶなら、それがあなたの3年間の答えでしょう。だけれど……〟
「えっ、何!?」
 トルネリコの声が、すうっと遠ざかった。それと引き換えのように、すわっとした浮遊感が、モモを訪れた。それは、モモには馴染みの深い感覚。
 世界を跳ぶときの、感覚。
「ええっ!?」
 脚が、勝手に動いた。世界間を跳ぶ脚、カグの樹の義足が。
「ちょっとっ」
 こんなことは今までになかった。モモは、地上での助走もなく空をとんとんと駆け上がっていく脚に慌てる。両手を拘束していたはずのロープはいつの間にかほどけていて、あっという間にトルネリコが視界の遠く下の方に消えた。一瞬、エルマーが必死の形相で手を伸ばしたのが見えたような気がしたが、本当に見えていたのかどうか。
 制御できない。
脚は、ぐんぐんと空を蹴って進み、目の前の色が目まぐるしく変わった。
「なんで!?」
 わけがわからず叫んだけれど、答えてくれる声はない。
「なんでよ、あたしの……、っ」
 あたしの脚なのに。
 そう言おうとして、モモの喉は凍った。そんなことは、とても言えないと、気がついた。
 気がついた途端に、がくん、と脚が高度を落とした。着陸の準備に入るんだ、とほとんど反射的にモモは身構えて、降り立とうとしているところが、何度も何度も自分を引き寄せてきたあの場所だとわかった。
 第6球だ。
 視覚的な特徴でわかったのではない。今眼下にちらついている大地が、どこの国のものなのかもわからないくらいだ。風の匂いとでも言おうか、そういう、直感よりも、もう少しだけ具体的な感覚で。
 ペシェ、元気かな。あの壺、ちゃんと学校に持って行けたんだろうか。少し前のハンター任務で関わった少年のことを思い出し、モモは少し微笑んだ。
 ペシェだけではない。モモはジャンパーになってからの3年間、何度もこの第6球へ跳び、たくさんの人と、国と、物と、関わってきた。それは大抵、意図せずに跳んできてしまった結果ではあったけれど。
 モモの胸の中から、少し焦りが消えた頃合いで、ぶわ、と目の前が白く霞んだ。雲の中へ入ったのだ。それはあまりにも厚い雲で、いつの間にか抜け出て地上が目の前に迫ってからも、そうとは気がつかぬほどだった。
「あっぶな……っ!」
 危うく地面に叩きつけられそうになった体のバランスをなんとか保って、モモは湿った草むらの上に降り立った。……と、思った。
 両脚は地面を踏んでからも動きを止めることはなく、モモの意思などまるでお構いなしにすさまじい速度で走り続けたのだ。
「はああ!?」
 薄れていた焦りが復活したが、だからといって脚の動きをどうにかできるわけでもなく、モモは両脚の義足に運ばれるままになった。
 両脚は、迷うことなく一直線に走った。どこか目的地があることは間違いがないようだ。厚い雲の下、薄暗い視界の中で、目の前に浮かび上がってきたのは。
「トルネリコ……!?」
 思わずそう口に出してしまうほど、よく似た巨大な樹木だった。どっしりしたその幹を舐め上げるように見ると、つま先から頭のてっぺんまで、戦慄が走り抜けた。
 歓喜であった。
 あふれんばかりの喜びを、モモは両脚の義足から感じ取って、そして察した。
目の前の巨大な樹が、何であるかを。
「この義足は……、この脚は、ここから切り出されたんだね」
 目の前の樹木は、カグの樹だ。ジャンパーの血を持たぬ者に、世界間を跳ぶ力を持つ脚を授ける樹。
 その樹を感慨深く眺め続ける時間は、モモに与えられなかった。
 樹の中央付近に見えていた大きな虚(うろ)がぼんやりと光ったかと思うと、モモはそこへ走り出し、そして、虚の中へ飛び込もうとした。
「ええっ!?」
 勝手に動く脚に、ブレーキがかけられない。とっさに上半身を倒すと、額を地面にしたたかぶつけ、そのまま、脚が先行して引きずられた。口の中に土が入り、がむしゃらに動かした両手は草花をぶちぶちとちぎるばかりだった。
「くはっ」
 うまく息ができなくて、モモはむせた。唇を切ったのだろうか、血の味がした。
 何もつかめなかった手が、ようやく何かにしがみつけた、と思ったらそれはごつごつした木肌で、背中をひねって様子をうかがうと、膝下のあたりまでが虚に吸い込まれていた。
「イヤ!!」
 甲高い声が、モモの喉からほとばしった。こんな、感情に任せた叫びが、まだできるとは思わなかった。
 それを聞くと思うのか、とでも言うように、虚に引き込まれる力は増し、モモはずるり、とまた少し虚に脚を沈めた。
「あぁ!」
 モモは必死に、木肌のくぼみに手をかけ、腕に体重をかけてしがみついた。
 なぜ、目的球誤差が起こるたびに第6球へ跳んできていたのか。今なら、その理由がはっきりわかる。いや、本当はとうに感づいていたのだ。それを、気がつかないふりをしていただけで。
 この脚を、樹が呼んでいた。
 モモが脚を斬り落とされたのと同じように、このカグの樹もまた、モモの義足にするために体の一部を切り出されたのだ。
 〝戻らせて〟
 〝帰らせて。わたしの、中に〟
 膝から下が、びりびりと震えた。モモも唇を震わせて、その訴えを聞いた。
 〝望まれてあなたの一部になったと思ったのに〟
 〝あなたは、いつまでたっても認めない〟
「違うの、あたしは、うっ」
 ぐん、と強く引かれてモモは爪を立てた。もう、腰の近くまで虚に入り込んでしまっている。この期に及んで、下手な言い訳をするわけにはいかないのに、上手く言葉が出てこない。
 〝こんなの、あんまりじゃない〟
「うん、うん」
 モモは、がくがくとうなずいた。そうだ、あんまりだ。両親を殺害した犯人の手掛かりを探すため、職を得て生きていくため、つまりはジャンパーとして世界間を跳ぶために、モモにはこの脚が必要だった。
 それなのに。
「あたしは、いつまでも目をそらし続けてた……。義足を見るたび、脚を失ったこと、ふたりが死んだことを思い出してしまうから。それが、嫌で嫌で、義足が疎ましくて、これさえなければ、なんて……本末転倒なのに」
 仕方のないことだもん、気にしてないよ、なんて身軽を装って。本当は、考えまいとしていただけのことなのに。
 ちゃんと聞いて。
 トルネリコが、モモに繰り返していた言葉。そうだ、ちゃんと聞かなければならなかったのだ。自分の内側の声を。「脚」も含めて、モモというひとりの、声を。
「ごめん……、ごめんね……」
 モモは何度もメッセージを受け取っていたのに。何度も何度も、この第6球に降り立っていたのに。
「ちゃんと聞く。ちゃんと見る。……ちゃんと立つから!」
 ひとりで立てるのに。そのための脚をもらったのに。
「だからお願い、あたしの脚になって!!」
 ひとりで立てる。
 だけどそれはこの脚がなければ無理だ。
「カグの樹の脚で、あたしは立つから!!」
 叫んだ。
 ぐいぐいと惹かれていた虚の力が、じわじわ、弱まった。
 〝あなたの名前は?〟
 決意を問うように、声が響いた。
「モモ。……フック社のジャンパー、モモ!」
 〝うん。忘れないで。「わたしたち」はモモよ〟
「大丈夫。あたしの脚は、繋がってるから」
 ふ、とまるで笑うように風が揺らいで、爽やかな香りがした。虚に引き込もうとする力は消えていたけれど、すでに体は胸のあたりまで樹に沈み込んでいて、モモはとても自力で這い上がれそうになかった。
「えっ、ウソ、どうしよ」
 自らの体重でじりじり下がっていくのを、なんとか少しでも上へともがくものの、どうも逆効果であるような気がして仕方がない。
 虚のふちが、今にも目の高さにまで下がってきそうで、モモの視界はどんどん狭まった。木肌と、灰色の曇り空。その、雲の影が、一か所だけどす黒く濁った。
「えっ」
 その影に、見覚えがある気がして、モモは息を飲む。
 ぼわぼわとした、黒。それは、あの日。
「ああああああああああ!!」
 こいつだ、と思った。両親を殺し、モモの脚を斬り落としていった影。
〝トクラナ……〟
 薄い記憶に残っていたその言葉を、影は再び、発した。今度こそ、はっきりと、モモはそれを聞いた。
「何者なの!なぜ、ふたりを殺したの!!」
 虚にしがみついたまま、モモは叫んだ。渾身の腕の力で、上半身を虚から押し出す。
 影が、その姿をあざ笑うように遠ざかった。
「待て!」
 消えようとするものを、モモは追いかけたかった。
 立ち上がりたかった。
 立ち上がりたい。
 立ち上がりたい。
 今なら、それができる。
「立て、モモ!」
 ぐん、と脚が動いて、虚から跳び出した。太くうねった木の根の上に立って、モモが手を伸ばした瞬間に。
 黒い影は消えた。
「えっ……」
 つかむものもなく、モモは手を伸ばした恰好のまま、大きく前のめって体勢を崩した。
「モモ!」
 焦ったように呼ぶ声があって、モモの体を誰かががつり、と支えた。
「エルマー……?」
彼がいったいいつの間に、どうやって、ここへやってきたのかわからず驚いた。
「何ぼんやりしてんだ!」
 切羽詰まった表情で怒鳴られて、モモは慌てて周囲を見回した。
「う、わっ」
 急に腕の中で激しく動かれ、支えていたはずのエルマーもともにバランスを崩した。ふたり、カグの樹から転げ落ちる。
「ぎゃあ!」
「ぐっは、お前なあっ!」
 エルマーの腹部に頭突きするような恰好でカグの樹の根元に倒れこみ、モモはハアア、と大きく肩を動かした。
「エルマー!」
 腹を抱えてげほげほせき込むエルマーに、モモはすぐつかみかかる。
「黒い影を、見なかった!?」
「ぐっほ、く、黒い影?」
「今、本当に、ついさっき、あたしの目の前に現れたの!!トクラナ、って言って」
「お前、それ、もしかして」
 エルマーもハッと息を飲んだ。慌てて周囲を見回してくれるものの、すでに姿が見えないのは、当然ではあるけれど、同じようだった。
「影なのに、影も形も、ってか」
「は?」
 エルマーに怪訝な顔をされ、モモは苦笑して何でもない、と首を振った。
「ま、あきらめずに探すわ。……今度は、逃さない」
「……なんかお前、闘志増してないか」
「そう?あっ、そうだ、脚!」
 モモはハッと気がついて、自分の脚を確かめた。黒いブーツに包まれたまま、特に何の変りもなく、その脚は、モモの膝にくっついていた。
「ああ、よかった……、そうだよね、ちゃんと立てたもんね」
 ホッと息をついて、モモは両脚を撫でた。いつも、冷たく感じていた両脚は、今はほんのり温かいような気が、した。かすかに、爽やかな香りが立ち上った。
 モモに頭突きをされた腹部をさすりながら、その様子を眺めていたエルマーは、ハーッ、と深いため息をついた。
「あ、ごめんエルマー」
「謝罪が遅い」
「ですね……。えっと、どうやって来たの?」
「跳んで来たに決まってんだろうが。お前の跳び出し方が、明らかに変だったから、すぐ痕跡を追ったんだ。反応のポイントさえわかれば、そこを座標に据えるだけだからな」
 エルマーはさらっと言うが、同じことがモモにできるとは思えなかった。球までの特定は、なんとかできるかもしれないが、こうもピンポイントで跳んで来られるとは。
「さ、さすが目的球誤差ゼロの男……」
 モモは思わずそう感嘆したが、エルマーは嬉しくもなさそうに渋面を作るだけだった。この痛そうなほどにしかめられた眉もずいぶん見慣れたなあ、なんて思ったら、急に、モモの気持ちは和んだ。
「……何笑ってんだ」
「ありがとう、エルマー」
「は?」
「追ってきてくれて、ありがとう」
 真正面から礼を言われて、エルマーは困ったように目をそらしたが、やがて、またひとつため息をつくと、やっと言える、というように。
「お前さあ、人の事情ばっかりおとなしく聞いてる場合じゃないだろ」
 と、背後のカグの樹を指差した。
「あっはははは、ホントにね!」
「……帰るぞ」
 エルマーが、立ち上がった。モモに手を差し伸べるべきか、迷っているような仕草だったが、モモは手を借りることなく立ち上がった。そして、同じ高さまで来てから、エルマーと手を繋いだ。
「帰ろう」
 この脚で。