カグの樹の脚

つばめ綺譚社の紺堂カヤの小説『カグの樹の脚』を連載形式で順次公開してゆきます。

連載第十五回 着地、そして、次の空へ

 それからハブに直帰できたわけではもちろんなく、モモとエルマーは第九八球に戻ってトルネリコ周辺がどう解決したかを見届けた。

 姿を表せばいろいろと説明が面倒になりそうだ、という意見の一致の元、少し離れた地域で衣服を調達し、変装した上でこっそり遠巻きに事態の収束を観測した。

 結果からいうと。北東地方の行政は、議会に収束されることになった。

この方針については、住民投票で決定された。「選挙で選出した議員による議会で行う」「選挙で選出した議員がトルネリコの意見を議会にかける」「議会は解散し、トルネリコを中枢に置く」の三つの選択肢が出され、およそ九割というすさまじい投票率住民投票の結果、「選挙で選出した議員による議会で行う」と決定されたのである。

 そこまでを確認して、モモとエルマーは、任務は完了と判断し、ハブへ帰還した。

第九八球における調査任務の報告書をエルマーが書き、モモはクイーンにどやしつけられながら脚の検診を受けた。

 その直後、モモとエルマーはポタラの訪問を受けた。真っ青な顔をして平謝りするポタラに、モモはひたすら恐縮し、エルマーはロベンを出せ、と自分が被害に遭ったわけでもないのに激怒していた。

 おそらくそうであろうと予想はしていたが、ロベンがモモを身代わりにしたのは彼の勝手な判断と行動だったらしい。で、あるから、ポタラが謝罪に来ることはないだろうと思うのだが。

その、ポタラの去り際、エルマーが彼女に声をかけていた。

「……俺の様子の報告を、こいつに頼んでいたらしいが」

「こいつ、ってあたし?」

 というモモの突っ込みを無視して。

イエローストーンの家には、自分で顔を出す。おかしな伺い方をするな、と伝えておいてくれ。……家族に」

「……わかったわ」

 ポタラは美しく微笑んで、エルマーにうなずき、モモに目配せをした。

「じゃあ、一個任務終わったんだし、行ってきたら?」

 ポタラが去ってから、モモがそうすすめると、エルマーはおなじみの渋面を作ってバカか、と吐き捨てた。

「ひとつ任務が終わるたびに実家帰っててどうするんだ。俺はフック社のジャンパーだぞ」

「……つまりそういう決着のつけ方をしたんですかい?」

 吹っ切れた、というやつなのだろうか。モモがエルマーの顔を覗き込むようにすると、彼は心底嫌そうな目を向けてから、それでも、生真面目に答えた。

「純血であろうがなかろうが、俺はジャンパーだ。それは変わらない。どんなジャンパーになるかは、俺次第だ」

 本質を見失ってはいけない。その戒めを、自分にも適用したということなのだろう。

 そう、モモとエルマーはジャンパーだ。純血であろうとなかろうと、義足であろうとなかろうと。

「何ニヤニヤしてるんだよ」

「別にー?」

 エルマーはふん、と鼻を鳴らしてモモを睨んだ。初めて顔を合わせたときのような険悪さはないものの、モモへの態度は決して友好的ではないままだ。

 それはそれでいいと、思っているけれど。モモもまた、初めて顔を合わせたときのような不安は、感じていない。

「次から、任務のついでに個人的な調査をさせてもらえるよう、許可を取っておいた」

「へ?何それ勝手だなあ!」

 許可を申請したい、ではなく、取っておいた、かい、とぼやきながら、モモは示された通信端末の画面を覗いた。そして、絶句した。

『特別調査許可:第一〇八球において発生した、フック社モモの両親殺害に関する調査。正体不明の犯人の捜索を含む。 許可対象者:モモ&エルマー』

「心当たりも手がかりもない、とお前は言ったが、今から見つけられる手がかりだってあるかもしれないだろう。……受け入れられる覚悟ができたなら、せめて知ろうとだけはしてみたらどうだ」

 やはり、というか、目は合わせないままでつらつらそんなことを言うエルマーの横顔を、モモはぽかんと、口を開けて眺めてしまった。

ちら、とモモに視線を落として、エルマーはごく平坦に訊いた。

「異存があるか?」

「……ありま、せん」

 それ、ウィリアム社長のマネ?と混ぜっ返す余裕は、さすがのモモにもなかった。

 

 

  • * *

 

 

 モモとエルマーは、手を繋いだ。歩幅を合わせて助走をつけ、高く跳び上がった。

 すわっとした、浮遊感。風が駆け抜けてゆく感じ。

 甘いような、酸っぱいような、果実に似た香り。

 目の前が、ぐうん、と開けた。

 

 

 『カグの樹の脚』──了

連載第十四回 脚

「その答えすら、私にはもう差し出せない」
 口が、勝手に動いた。けれど不思議と、体が乗っ取られているとか、操られているというような感じはなかった。
「ただ、これだけは」
 自分にこんな声が出せるとは思わなかった、と驚き、そして気恥ずかしくなるほど優しげな響きでモモは、トルネリコの言葉を発した。
「皆をとても、いとおしく思う。今までも、これからも」
 ああ、と地上で誰かが泣き崩れた。
 嘆きであると言い切ってしまうことの難しい、あらゆる感情と思い出が凝縮された涙だと、思った。思ったけれどモモには、この思いが自分のものであるのかトルネリコにものであるのか、判断がつかなかった。
〝ありがとう〟
トルネリコが、モモの口を使うことなく、そう言った。おそらくは、モモにしか聞こえていない。
「これで、よかったの?」
 とモモは言ったけれど、実際に声が出ているかどうか自信がなかった。
 〝ええ。これで、充分〟
「直接、全員の頭の中に聞かせてあげたらよかったのに。あたしが勝手な演技をしたんだ、って感じる人も、絶対いると思うけど」
 〝そう感じた人にとっては、それが真実なのだから、それでいいの。何を聞くかは、皆、自分で選ぶのだから〟
「そっか」
 〝だから、あなたも選ぶの〟
「え?」
 〝ちゃんと聞いて。聞こえるはず。聞こえているはず〟
「何の、話……」
 トルネリコは、これまでモモに何度も言っていた。初めて目にしたときも、夢の中でも。ちゃんと聞いて、と。
 〝聞かないことを選ぶなら、それがあなたの3年間の答えでしょう。だけれど……〟
「えっ、何!?」
 トルネリコの声が、すうっと遠ざかった。それと引き換えのように、すわっとした浮遊感が、モモを訪れた。それは、モモには馴染みの深い感覚。
 世界を跳ぶときの、感覚。
「ええっ!?」
 脚が、勝手に動いた。世界間を跳ぶ脚、カグの樹の義足が。
「ちょっとっ」
 こんなことは今までになかった。モモは、地上での助走もなく空をとんとんと駆け上がっていく脚に慌てる。両手を拘束していたはずのロープはいつの間にかほどけていて、あっという間にトルネリコが視界の遠く下の方に消えた。一瞬、エルマーが必死の形相で手を伸ばしたのが見えたような気がしたが、本当に見えていたのかどうか。
 制御できない。
脚は、ぐんぐんと空を蹴って進み、目の前の色が目まぐるしく変わった。
「なんで!?」
 わけがわからず叫んだけれど、答えてくれる声はない。
「なんでよ、あたしの……、っ」
 あたしの脚なのに。
 そう言おうとして、モモの喉は凍った。そんなことは、とても言えないと、気がついた。
 気がついた途端に、がくん、と脚が高度を落とした。着陸の準備に入るんだ、とほとんど反射的にモモは身構えて、降り立とうとしているところが、何度も何度も自分を引き寄せてきたあの場所だとわかった。
 第6球だ。
 視覚的な特徴でわかったのではない。今眼下にちらついている大地が、どこの国のものなのかもわからないくらいだ。風の匂いとでも言おうか、そういう、直感よりも、もう少しだけ具体的な感覚で。
 ペシェ、元気かな。あの壺、ちゃんと学校に持って行けたんだろうか。少し前のハンター任務で関わった少年のことを思い出し、モモは少し微笑んだ。
 ペシェだけではない。モモはジャンパーになってからの3年間、何度もこの第6球へ跳び、たくさんの人と、国と、物と、関わってきた。それは大抵、意図せずに跳んできてしまった結果ではあったけれど。
 モモの胸の中から、少し焦りが消えた頃合いで、ぶわ、と目の前が白く霞んだ。雲の中へ入ったのだ。それはあまりにも厚い雲で、いつの間にか抜け出て地上が目の前に迫ってからも、そうとは気がつかぬほどだった。
「あっぶな……っ!」
 危うく地面に叩きつけられそうになった体のバランスをなんとか保って、モモは湿った草むらの上に降り立った。……と、思った。
 両脚は地面を踏んでからも動きを止めることはなく、モモの意思などまるでお構いなしにすさまじい速度で走り続けたのだ。
「はああ!?」
 薄れていた焦りが復活したが、だからといって脚の動きをどうにかできるわけでもなく、モモは両脚の義足に運ばれるままになった。
 両脚は、迷うことなく一直線に走った。どこか目的地があることは間違いがないようだ。厚い雲の下、薄暗い視界の中で、目の前に浮かび上がってきたのは。
「トルネリコ……!?」
 思わずそう口に出してしまうほど、よく似た巨大な樹木だった。どっしりしたその幹を舐め上げるように見ると、つま先から頭のてっぺんまで、戦慄が走り抜けた。
 歓喜であった。
 あふれんばかりの喜びを、モモは両脚の義足から感じ取って、そして察した。
目の前の巨大な樹が、何であるかを。
「この義足は……、この脚は、ここから切り出されたんだね」
 目の前の樹木は、カグの樹だ。ジャンパーの血を持たぬ者に、世界間を跳ぶ力を持つ脚を授ける樹。
 その樹を感慨深く眺め続ける時間は、モモに与えられなかった。
 樹の中央付近に見えていた大きな虚(うろ)がぼんやりと光ったかと思うと、モモはそこへ走り出し、そして、虚の中へ飛び込もうとした。
「ええっ!?」
 勝手に動く脚に、ブレーキがかけられない。とっさに上半身を倒すと、額を地面にしたたかぶつけ、そのまま、脚が先行して引きずられた。口の中に土が入り、がむしゃらに動かした両手は草花をぶちぶちとちぎるばかりだった。
「くはっ」
 うまく息ができなくて、モモはむせた。唇を切ったのだろうか、血の味がした。
 何もつかめなかった手が、ようやく何かにしがみつけた、と思ったらそれはごつごつした木肌で、背中をひねって様子をうかがうと、膝下のあたりまでが虚に吸い込まれていた。
「イヤ!!」
 甲高い声が、モモの喉からほとばしった。こんな、感情に任せた叫びが、まだできるとは思わなかった。
 それを聞くと思うのか、とでも言うように、虚に引き込まれる力は増し、モモはずるり、とまた少し虚に脚を沈めた。
「あぁ!」
 モモは必死に、木肌のくぼみに手をかけ、腕に体重をかけてしがみついた。
 なぜ、目的球誤差が起こるたびに第6球へ跳んできていたのか。今なら、その理由がはっきりわかる。いや、本当はとうに感づいていたのだ。それを、気がつかないふりをしていただけで。
 この脚を、樹が呼んでいた。
 モモが脚を斬り落とされたのと同じように、このカグの樹もまた、モモの義足にするために体の一部を切り出されたのだ。
 〝戻らせて〟
 〝帰らせて。わたしの、中に〟
 膝から下が、びりびりと震えた。モモも唇を震わせて、その訴えを聞いた。
 〝望まれてあなたの一部になったと思ったのに〟
 〝あなたは、いつまでたっても認めない〟
「違うの、あたしは、うっ」
 ぐん、と強く引かれてモモは爪を立てた。もう、腰の近くまで虚に入り込んでしまっている。この期に及んで、下手な言い訳をするわけにはいかないのに、上手く言葉が出てこない。
 〝こんなの、あんまりじゃない〟
「うん、うん」
 モモは、がくがくとうなずいた。そうだ、あんまりだ。両親を殺害した犯人の手掛かりを探すため、職を得て生きていくため、つまりはジャンパーとして世界間を跳ぶために、モモにはこの脚が必要だった。
 それなのに。
「あたしは、いつまでも目をそらし続けてた……。義足を見るたび、脚を失ったこと、ふたりが死んだことを思い出してしまうから。それが、嫌で嫌で、義足が疎ましくて、これさえなければ、なんて……本末転倒なのに」
 仕方のないことだもん、気にしてないよ、なんて身軽を装って。本当は、考えまいとしていただけのことなのに。
 ちゃんと聞いて。
 トルネリコが、モモに繰り返していた言葉。そうだ、ちゃんと聞かなければならなかったのだ。自分の内側の声を。「脚」も含めて、モモというひとりの、声を。
「ごめん……、ごめんね……」
 モモは何度もメッセージを受け取っていたのに。何度も何度も、この第6球に降り立っていたのに。
「ちゃんと聞く。ちゃんと見る。……ちゃんと立つから!」
 ひとりで立てるのに。そのための脚をもらったのに。
「だからお願い、あたしの脚になって!!」
 ひとりで立てる。
 だけどそれはこの脚がなければ無理だ。
「カグの樹の脚で、あたしは立つから!!」
 叫んだ。
 ぐいぐいと惹かれていた虚の力が、じわじわ、弱まった。
 〝あなたの名前は?〟
 決意を問うように、声が響いた。
「モモ。……フック社のジャンパー、モモ!」
 〝うん。忘れないで。「わたしたち」はモモよ〟
「大丈夫。あたしの脚は、繋がってるから」
 ふ、とまるで笑うように風が揺らいで、爽やかな香りがした。虚に引き込もうとする力は消えていたけれど、すでに体は胸のあたりまで樹に沈み込んでいて、モモはとても自力で這い上がれそうになかった。
「えっ、ウソ、どうしよ」
 自らの体重でじりじり下がっていくのを、なんとか少しでも上へともがくものの、どうも逆効果であるような気がして仕方がない。
 虚のふちが、今にも目の高さにまで下がってきそうで、モモの視界はどんどん狭まった。木肌と、灰色の曇り空。その、雲の影が、一か所だけどす黒く濁った。
「えっ」
 その影に、見覚えがある気がして、モモは息を飲む。
 ぼわぼわとした、黒。それは、あの日。
「ああああああああああ!!」
 こいつだ、と思った。両親を殺し、モモの脚を斬り落としていった影。
〝トクラナ……〟
 薄い記憶に残っていたその言葉を、影は再び、発した。今度こそ、はっきりと、モモはそれを聞いた。
「何者なの!なぜ、ふたりを殺したの!!」
 虚にしがみついたまま、モモは叫んだ。渾身の腕の力で、上半身を虚から押し出す。
 影が、その姿をあざ笑うように遠ざかった。
「待て!」
 消えようとするものを、モモは追いかけたかった。
 立ち上がりたかった。
 立ち上がりたい。
 立ち上がりたい。
 今なら、それができる。
「立て、モモ!」
 ぐん、と脚が動いて、虚から跳び出した。太くうねった木の根の上に立って、モモが手を伸ばした瞬間に。
 黒い影は消えた。
「えっ……」
 つかむものもなく、モモは手を伸ばした恰好のまま、大きく前のめって体勢を崩した。
「モモ!」
 焦ったように呼ぶ声があって、モモの体を誰かががつり、と支えた。
「エルマー……?」
彼がいったいいつの間に、どうやって、ここへやってきたのかわからず驚いた。
「何ぼんやりしてんだ!」
 切羽詰まった表情で怒鳴られて、モモは慌てて周囲を見回した。
「う、わっ」
 急に腕の中で激しく動かれ、支えていたはずのエルマーもともにバランスを崩した。ふたり、カグの樹から転げ落ちる。
「ぎゃあ!」
「ぐっは、お前なあっ!」
 エルマーの腹部に頭突きするような恰好でカグの樹の根元に倒れこみ、モモはハアア、と大きく肩を動かした。
「エルマー!」
 腹を抱えてげほげほせき込むエルマーに、モモはすぐつかみかかる。
「黒い影を、見なかった!?」
「ぐっほ、く、黒い影?」
「今、本当に、ついさっき、あたしの目の前に現れたの!!トクラナ、って言って」
「お前、それ、もしかして」
 エルマーもハッと息を飲んだ。慌てて周囲を見回してくれるものの、すでに姿が見えないのは、当然ではあるけれど、同じようだった。
「影なのに、影も形も、ってか」
「は?」
 エルマーに怪訝な顔をされ、モモは苦笑して何でもない、と首を振った。
「ま、あきらめずに探すわ。……今度は、逃さない」
「……なんかお前、闘志増してないか」
「そう?あっ、そうだ、脚!」
 モモはハッと気がついて、自分の脚を確かめた。黒いブーツに包まれたまま、特に何の変りもなく、その脚は、モモの膝にくっついていた。
「ああ、よかった……、そうだよね、ちゃんと立てたもんね」
 ホッと息をついて、モモは両脚を撫でた。いつも、冷たく感じていた両脚は、今はほんのり温かいような気が、した。かすかに、爽やかな香りが立ち上った。
 モモに頭突きをされた腹部をさすりながら、その様子を眺めていたエルマーは、ハーッ、と深いため息をついた。
「あ、ごめんエルマー」
「謝罪が遅い」
「ですね……。えっと、どうやって来たの?」
「跳んで来たに決まってんだろうが。お前の跳び出し方が、明らかに変だったから、すぐ痕跡を追ったんだ。反応のポイントさえわかれば、そこを座標に据えるだけだからな」
 エルマーはさらっと言うが、同じことがモモにできるとは思えなかった。球までの特定は、なんとかできるかもしれないが、こうもピンポイントで跳んで来られるとは。
「さ、さすが目的球誤差ゼロの男……」
 モモは思わずそう感嘆したが、エルマーは嬉しくもなさそうに渋面を作るだけだった。この痛そうなほどにしかめられた眉もずいぶん見慣れたなあ、なんて思ったら、急に、モモの気持ちは和んだ。
「……何笑ってんだ」
「ありがとう、エルマー」
「は?」
「追ってきてくれて、ありがとう」
 真正面から礼を言われて、エルマーは困ったように目をそらしたが、やがて、またひとつため息をつくと、やっと言える、というように。
「お前さあ、人の事情ばっかりおとなしく聞いてる場合じゃないだろ」
 と、背後のカグの樹を指差した。
「あっはははは、ホントにね!」
「……帰るぞ」
 エルマーが、立ち上がった。モモに手を差し伸べるべきか、迷っているような仕草だったが、モモは手を借りることなく立ち上がった。そして、同じ高さまで来てから、エルマーと手を繋いだ。
「帰ろう」
 この脚で。

連載第十三回 樹上

 夕暮れ近くになってようやく静かになった小屋の中で、エルマーは大きく息をついた。

 夜明けとほぼ同時に眠りについたエルマーが次に目覚めたとき、いったいどうしたものだか、数名の若い娘が小屋の入り口で待ち構えており、昼食だと称してたくさんのパンや菓子を振舞われた。目を白黒させるエルマーに、娘たちは喧しくおしゃべりをし続け、今朝、そこの通りで妹さんに会ったわ、などと話した。妹、に一瞬ぴんと来なかったのをごまかすように、愚妹がお世話に、などとごにょごにょ言ったら、愚妹ですって古風ね真面目ね、ときゃあきゃあ盛り上がってしまったので閉口した。何がそんなに面白かったのか、エルマーにはさっぱりわからない。

 入れ替わり立ち代わりやってきていた娘たちがようやく去ってみると、すでに一日のほとんどが終わっていた。モモが帰ってくる気配はなく、エルマーはチッと舌打ちをした。娘たちに取り囲まれているところに姿を現さなかったのは幸いだと言えたが、あまり長く外をうろつくのは得策と思えなかった。この地方の現状は、当初考えていたよりもはるかに深刻であるようなのだ。エルマーとて、ただおろおろと娘たちの会話に付き合っていたわけではない。

「トルネリコを切り倒す、というのを本当にやるかはわからんが……」

 そういう噂が立つのも仕方がないと思えるような、荒っぽい衝突は日に日に増えているという。モモが議会派の者たちに接触しているとして、もしトルネリコの夜間警備に雇われていると知られれば、おそらくただでは帰してもらえないだろう。よそ者だ、という主張がどれほど役に立つものか。

 モモならばそんな局面もソツなく乗り切ってしまうのだろうか、と考えて、エルマーはきつく眉を寄せた。僻んでいるような、そんな考えを持った自分に、腹が立った。

誇りとコンプレックスは表裏一体なのだとわかった。ちょうどいいから表裏一体なまま、まとめて捨ててしまいたかった。モモにあそこまで自分のことを話す気になれたというのは、エルマー自身も不思議で、話せたからには、もう捨てきってしまえたのではないかと、少しばかり期待もしていたのだが。

「そう簡単にはいかない、か」

 サンスーシ社を出て、フック社に入り、義足ジャンパーのモモと組んで。何か変われたように錯覚していたが、変わったのはエルマーではなく環境だ。本気で自分を変えたいと思うなら、いっそ、両脚を切り落とす覚悟でなければならないのかもしれない。

「バカか、俺は」

 独り言とは思えないほどの声量で、エルマーは吐き捨てた。いくら自分の胸中でのことでも、軽率に引き合いに出すべき事柄ではない。

 目の前で両親を殺され、なおかつその犯人はわからず、さらに自分の両脚も失い、異世界を跳びまわる生活をすることになる……。それがいったいどういうことなのか、想像することも難しい。それを、理解しろ、ということになれば、到底不可能であるようにしか思われない。それと同時に、モモが理解を求めるはずがないとも思う。それなのに理解しようとするのは、理解できなければ自分のおさまりが悪いのだ、というただそれだけのことのような気がしてならなかった。

 奇妙な罪悪感。人はときおり、自分が知らない体験の痕を持っている者に対して、それを抱くことがある。

 エルマーは、ジャンパーになった経緯を話していたときのモモの、微笑んだ横顔を思った。世間話をするように、なんでもないことのように、軽々と唇を動かしていた。無理にそう振舞っているようには見えなかったものの、不自然さは拭えなかった。特に、脚を無意識に撫でていたときの、あの冷淡さが気になった。

 ガシガシ、と大きく髪をかき混ぜる。いったい何について思案していたのか、よくわからなくなってしまった。

 ただひとつ、昨夜言えばよかった、とエルマーが思うことは。

「俺の事情をおとなしく聞いてる場合じゃないだろ」

 エルマーよりもよほど複雑な事情を抱えておいて。それもまた、罪悪感と同じくらい奇妙な苛立ちだとはわかっていたが。それでも、これだけは言ってやろうと心に決める。この任務が、終わったら。そう、終わったら、だ。とにかく今はこの仕事を片付けなければと、エルマーは頭を切り替えるべく、深呼吸のようなものをしてみた。まさにそのときに。

「なんだあれは!!」

 叫びにも似た大声がして、エルマーは小屋を飛び出した。

 広場のほぼ中央に、トルネリコを見上げて指をさしている男がいた。ダガーだ。大声を出したのはどうやら彼のようで、何事かと人々がざわざわ集まりだしていた。指で示された方を見上げると。

「なっ!?」

 人が、両手を縛られ吊り上げられた状態で、トルネリコの幹に張り付けられていた。エルマーが詰めていた小屋の、軽く2倍はあろうかという高さに、女、だろう、小柄な影が、ひとつ。

 小柄な、影。

 エルマーは目をこらした。こらすまでもなく、本当は一瞬にしてわかったのだけれど。

 

 トルネリコに張り付けられていたのは、モモだった。

 

「どういうことだ!」

 叫んで、エルマーは目の前に立っていたダガーに掴みかかった。

「それはこちらが知りたい!!警備していたのではないのか!?」

「チィッ」

 はっきりと音をたててエルマーが舌打ちする。誰もここには来ていない、と言い切れないところが情けなくはあるが、こんな、人ひとりを吊るすような真似をされればさすがに気がつく。いつの間に、どうやって。わからぬことばかりだが、その中でもエルマーの頭の中をもっとも大きく占めている疑問は。

「なんでお前がそこにいるんだ!!」

 エルマーは、モモに向かって怒鳴った。顎を上げ、遠くを見るようにしていたモモは、その声で初めて眼下の状況に気がついたようにハッとして、そして、あろうことかにっこりと笑った。

「あ、エルマー!」

 手を振ろうとでもしたのだろうか。動かそうとして動くはずのない手首が、ロープに引っ張られてぐん、としなった。

「いてて。いやー、ごめーん。ちょっと油断したら捕まっちゃってー」

「捕まっちゃって、じゃないだろ!」

 なんでそう、しれっと呑気な返事ができるのか。この場の緊張にいちばんの当事者がいちばんそぐわぬ態度でいるとは。少なからず脱力感を覚えたが、ここでそれに引きずられるわけにはいかない。どう見ても緊急事態だ。

 それで、捕まったというのはどういうことだ、とエルマーが再び口を開こうとしたとき。

「見ろ!トルネリコに娘が!!」

 再び叫び声がした。ダガーのものではなく、広場に集まって騒ぐ住民のものでもない。

 黒を基調とした服に身を包んだ男たちが、集団で広場へ入ってきた。こいつらが「議会派」というやつか、と誰に尋ねるでもなくエルマーは判断する。彼らがやってきた途端に、広場の空気は凍りつき、人々の表情は険悪なものになったのだ。

「トルネリコは生贄を求める、非人道的な存在だ!」

「そのはずだ、人ではないのだからな!」

「やはり廃さねばならぬ!」

「いきなり何を!!」

「トルネリコは決してそのような要求はしない!」

「ではこれは何だ!!」

 油をまいてあったところに、火が放たれた……、というような、一瞬の喧騒の拡大だった。これでは暴力沙汰になるのも時間の問題であろうと思われた。

 トルネリコの要求だ、いや違う、などとただ押し問答をする人々を見て、エルマーはふと不思議に思った。その真偽を確かめたいのなら、トルネリコ本人……いや、人間ではないから本人というのはおかしいのかもしれないが、ともかく、トルネリコに直接尋ねれば済むのではないのか。

 助言すべきか、とエルマーが口を開きかけたとき。

「無駄だ」

 エルマーの考え読んだように、ダガーが吐き捨てた。

「議会派の連中に、トルネリコの声は聞こえない。いや、本当は逆なのだ。トルネリコの声が聞こえない者たちが、議会派になったのだ」

 聞こえないものを、実感できないものを、信じ続けるのは難しい。それが可能になるのは、トルネリコが支配者や先導者と呼ばれるものでなく信仰対象となったときだろう。

「そういう、ことか……」

「そういうことだ。お前たちがトルネリコの声を聞くことができたのは幸運と言うほかない。……俺にももう、聞こえないんだ」

「え?」

 エルマーがダガーの方へガバリと体を向けると、彼は素早くエルマーのそばを離れた。

「皆!落ち着け!」

ダガーさん……」

 広場の中央へ進み出て大声を出したダガーは、人々の顔を見回すと、苦しそうな表情でしかしはっきりと言った。

「もう、よそう。彼らには通じない。ここでこれ以上騒ぎになれば、怪我人も出るだろう。あの娘もどうなるかわからない。醜く争い、血を流すことをトルネリコは望まないだろう」

 ざわめきが、すうっと沈静化していった。何か言いたげではあるが、それでも反論と呼べるほどの発言はできない、というような、苦々しげな沈黙であった。ダガーはこの沈黙の瞬間を逃さなかった。議会派の男たちにキッと顔を向ける。

「あの娘と、トルネリコに危害を加えないことを約束しろ。そうすれば、行政からトルネリコの仕組みを廃することを、我らは飲む」

 ざわめきは瞬時に、勢いを取り戻した。まさに隙を突かれた、というやつである。

「そんな!」

ダガーさん!勝手ですよ、長老に断わりもなく!!」

 再沸騰した人々を眺めながら、エルマーは名実ともに外野の立ち位置で、なるほどそういう茶番か、と仕組みをだいたい把握した。ちら、とトルネリコに吊るされたモモに視線を向けると、予想していたようにモモもまたエルマーを見ていて、目があったところで瞳をくるりと動かして首をがくん、とさせた。肩をすくめたかったものと見える。

「それで、よいのだ」

 しわがれた声がして、少年に付き添われた長老が広場にやってきた。水を打ったようにぴしゃりと、人々が静まる。ダガーのときとは違う沈黙だ。畏敬の念がそうさせたことは明らかだった。

「トルネリコの声が聞こえぬ者は、これからどんどん増えてくることだろう。そんな状態では、トルネリコの声を指針にしていくことは難しい。それは皆、理解できるじゃろう?」

 人々は素直に、うなずいた。

「人の政は、人が執り行うべき。その主張の正当性は、わしも承知していたよ。けれど、トルネリコをいとおしむ気持ちが強すぎたがゆえに、そして変化を恐れたがために、皆に言葉を尽くすことを怠った。……それが、こんな荒っぽいことを招いてしまったのだな」

 長老は、微笑んでいるようにすら見える穏やかさで、議会派の男たちに語りかけた。彼らはきまり悪そうに視線を泳がせる。長老は、それを糾弾することはなく、視線を上に……、トルネリコに向けた。

「聞こうとしても聞こえぬ、ということは、聞くべきものは他にある、ということだろう、トルネリコよ」

 人々が一斉に、トルネリコに注目した。

 それは自然、モモに視線が集まることにもなった。エルマーは、息を飲んだ。

はたしてモモは、人々が半ば期待していたとおりに口を開いた。20歳そこそこの娘には見えぬ、母なるおおらかな微笑みで。

 初めから彼女こそが、トルネリコの代弁者であったかのように。

 

※次回更新は7/10予定です

連載第十二回 身代わり

 モモは目が覚めると、起き上がるのを試みる前に体の自由が奪われていることに気が付いて、大きくため息をついた。腹がひどく傷む。みぞおちに拳を一発、という実にシンプルな方法で気絶させられたものらしい。手首を麻紐のようなもので固く結ばれている。背中に回された状態で縛られているため、手首よりもむしろ肩の痛みの方が勝った。どこかに閉じ込められているらしいが、窓もなければ光源になるようなものもなく、どこにいるのかはおろか、今が一体どのくらいの時刻になるのかすらわからない。

 迂闊だった。完全に、モモの油断が原因だ。軽く舌打ちして、エルマーの癖がうつったかも、と思ったら少し笑えた。と、その瞬間に暗闇が一筋だけ、光に切り取られた。

「この状況で笑えるとはな。よっぽど鈍感なのか、それとも救えぬほどの阿呆か、どちらだ?」

 扉が開かれて、そこからぬっと黒い影が現れた。顔を確認することはできないが、声からロベンだと判断した。

「それ、どっちの方がマシなのかよくわかんないんだけど?」

 ふん、と鼻で笑って、モモは黒い影でしかないロベンを睨みあげた。影でしか見えない、というのは嫌だな、と思う。腹の奥がぞわぞわする感じだ。思い出す必要のないことを思いこさせるような。

「そんなことより、ここどこ?あたし、なんで縛られてるわけ?」

「以外に冷静だな、お前。もう少し喚きたてるかと思ったんだが」

「質問に答えなよ」

 冷静だから、喚きたてないから、モモが怒っていないとでも思っているのだろうか、この男は。バカにされている、というのはとうにわかっていたことだとはいえ、ここまで侮られるいわれはない。

「口のきき方に気をつけろ、このツギハギが。お前自身が言ったのだからな、ポタラの役に立てるなら何の損もない、と」

「それが縛られてることの説明になってると本気で思ってる?大体、何の損もない、と言えるのは情報がもらえたら、の話でしょ?そっちの都合がいいように端折ってんじゃないっての」

「情報、ね……」

 今度はロベンが鼻で笑う。さすがにカチンときて、モモはロベンにも聞こえるように大きく舌打ちした。

「行儀の悪い娘だな、やはり。情報なら約束通り、くれてやるさ。教える、というよりは見せる……、いや、体験させる、と言った方がいいか」

「は?どういう意味……」

「立て。移動だ」

 モモの言葉をさえぎって、ロベンはモモの肩と腕をつかんで乱暴に立たせた。

「ちょっとぉ、痛いなあ!」

 至極まっとうな抗議の声は至極当然のように黙殺され、モモは幌のかかった馬車に乗せられた。馬車にはすでに数名の男が乗っていて、モモを値踏みするように見てから、素早く視線を逸らした。ロベンだけは馬車に乗らず、外から馬車を揺さぶるように幌をつかんで中を覗き込むと、この男たちをギョロリとねめつけた。口調だけは不自然なほど丁寧だった。

「約束通り、代わりの娘をお連れしました。この地方どころか、ホウル国の者でもありません。不都合はないだろうと思いますが」

 全員が黒っぽい服装の男たちはサッと目配せを交わしてうなずく。

「よかろう。庁舎で書類に捺印したら、任務は完了だ」

ポタラは」

「お前の女は庁舎の応接室にいる。拘束も一切してはいない、連れて行け」

 それを聞いたロベンは男たちに一礼すると、モモには一言もなくその場を去った。

「……えーっと……」

 後に残されたモモは、とりあえず、馬車の中の男たちの顔をぐるっと見回した。目を合わせようとする者はほとんどいない。

「要するに、あたしはポタラの身代わり、ってことだ?いや、要するにって言っても全然わかってないんだけどさ」

 モモが少しもおびえた様子を見せず、むしろ気軽な口調でこんなことを言うものだから、男たちは少なからず拍子抜けしたようだった。

「まあ、そういうことだな。……出せ」

 代表格らしき男の合図で、馬車が走り出した。ゴトゴトという振動がモモの体を、ブーツに包まれた義足を揺らす。

「うーん、じゃあ、まあ、仕方ない、のか?いや、仕方なくはないか……。えっと、あの、身代わり、はわかったんだけど、あたしこれからどうなるんでしょうね?」

「それを訊いて、どうするんだ」

「どうもしませんけど。捕まって縛られちゃってるんだからどうもできないし……。ただまあ、自分の行く末くらい知っておきたいかなあ、って」

 モモが引きつった笑みを浮かべると、男たちの表情は多少和らいだ。

「なるほど。そう心配することはない。ただ少し、トルネリコの枝から吊るすだけだよ」

「……はい?吊るす?」

 演技でもなんでもなく、モモはきょとんとした。意味がわからなさすぎる。

「えーっと、できればもう少しわかりやすく説明していただけますでしょうかね……。皆さまはいわゆる、議会派、というやつなんですよね?」

「ほう、そのあたりの事情を知っているとなれば説明はそう難しくない。そのとおりだ。我らは、あの前時代的なトルネリコを廃すために動いている」

「ああ、やっぱりそうですか。トルネリコを切り倒そうとしている、なんて噂を聞きましたけども?」

「それは噂にすぎんよ。まあ、可能であるならそれが一番手っ取り早いがね。だが、あれだけの巨大樹を切り倒すというのは容易ではないからな」

 何がおかしいものか、ぱらぱらと笑いが起こる。モモは今度はしっかり意識をした演技できょとんとした表情を維持した。

「えーっと、切り倒さず、あたしを吊るすことで、その、トルネリコを廃すことはできる、と?一体どういうわけで?」

「〝トルネリコは生贄に若い娘を捧げることを求める非人道的な支配者である〟と知らしめるのさ。これで世論は、一気に、圧倒的に、議会派に傾く」

 昂然と胸を逸らして放たれたセリフに、周囲から拍手が巻き起こった。モモは湧き起ってくる乾いた笑いを抑えられずにぼそりと呟いた。

「……非道を知らしめる、っつーか非道であるとでっち上げる、ってことだ……?」

 幸いにして聞かれていなかったようで、勢いづいた彼らは口ぐちに、得意げに、計画と思惑を語りだした。

「誰がどう考えても、樹木の声に従って人間の政治を行うなどという体制はおかしい。政治というのは、人のために、人が手を尽くして行うべきものだ。より多くの人の意見を反映させ、自分たちの手で動かしていかなければならないものだ。だが、その理屈を受け入れない者も、残念ながら存在するんだよ」

「正論を説いても動かない者を動かすには、彼らの信ずる対象を貶めてしまうのが一番効果的なんだ」

「トルネリコを物理的に傷つけることはせずに、議会派の実権を揺るがぬものとできる。これこそ、人道的といっていい方法なんだ」

 モモは、言葉を返すことができなかった。うなずくことも、できなかった。どちらが正しいと、モモが評価できる問題ではないのだ。

 トルネリコの声を、言葉を、思い出した。「彼らはもうひとりで立てる」「人同士で支えあわねば」そう言っていた。トルネリコも、いや、トルネリコこそが、わかっている。己の出番はもう終わったのだ、と。

 そう、トルネリコはわかっている。

「ああ……、そうか……」

 モモは思わず、口に出していた。この発言を議会派の男たちは、自分らへの理解と見たらしい。そうか、わかってくれるか、などと言って喜色をあらわにした。モモはゆるく首を横に振ってそれを否定すると、きょとんとした顔の芝居をやめて静かに口を開いた。

「ひとつ、確認させていただきたいのですが。あたしは、ただ吊るされるだけなんですよね?本当に生贄として死ななければならないなんてことは、ありませんよね?」

「もちろんだ、命の保障はする」

 代表格の男が、力強く即答したのを聞いて、モモははあ、と息をつくと、全員の顔を順番に眺めた。ここで初めて、男たちの総数を把握した。彼らは全員で5人だった。

「わかりました。あたしは、あなた方がやろうとしていることに賛同するわけじゃありません。でも、積極的に邪魔もしません。少なくとも、トルネリコに吊るされるまでは逃げたり、暴れたりはしないことをお約束します」

「感謝する」

 モモの言葉に偽りはないと判断してくれたらしい彼らは、モモの手首を縛っていた麻紐を解いてくれた。

 それからほどなくして、馬車が動きを止めた。幌をくぐって外へ出ると、もうずいぶんと日が落ちかけていて、橙色の空気がモモを包んだ。そんなに時間がたっているとは思わず、ああエルマー怒ってそうだなあ、なんて苦い気持ちになる。

 周囲をよく見ると、頭上、それもずいぶん高いところにトルネリコの立ち姿が見えた。どうやら昨夜モモとエルマーが警備していた、広場のようなところの裏側に回ってきているようだった。ここからトルネリコの根元にたどり着くには、相当に急な傾斜を登って行かなければならない。

「トルネリコ派の人々は正面の警備はしっかり固めているが、裏側であるこちらはまったくなのだ」

「でも、それもそのはず、という感じがしますが。この傾斜を登って行くのはかなり難しいのでは?」

「登って行くのであれば、な」

 妙な含みを持たせたセリフを聞いて、モモが怪訝な表情をすると、男たちはモモに傾斜を少しだけ登らせて、そこに立っているように指示をした。そして、モモの両手首と、腰にしっかりとロープを縛り付ける。

「え?ここで縛るの?」

「そうだ。このロープは、いくつもの滑車に通してある。合図で順番にロープを引っ張っていくと、君の体が浮き上がって、トルネリコの正面に吊るされるようになっているのだ」

「はー、そりゃまた大がかりなことで……。よく相手側にバレずに準備しましたねえ?……ああ、協力者がいたのか」

 モモは素直に感心しただけのつもりだったのだが、議会派の皆さまは皮肉を言われたとでも思ったのか、誰もが少しバツが悪そうにした。

「体が上がりきって、正面までたどり着けば、背中がしっかりトルネリコの幹にくっつくようになっている。ただ、上がっていく途中はかなり痛い思いをさせることになるだろう」

「ああ、わかりました」

「……あっさりしているな、君は」

 申し訳なさそうに説明していた男が、平然としているモモをしげしげと眺めた。モモは、ちょっと笑う。

「実際に脚を斬り落とすのに比べたら、たいした痛みじゃないだろうから」

 男は一層、怪訝な顔をした。モモはそれ以上のことは言わず、ただ微笑んだ。

「どうぞ、いつでも始めてください」

 代表格の男がうなずき、片手をあげて合図を送る。たわんでいたロープが徐々に張りつめ、ぐ、と力がこもったかと思うと、モモの体がゆっくりと持ち上げられ、ブーツが地面を離れた。そのまま上昇しつつ、ゆるやかな弧を描いて回転し、モモの体はトルネリコを半周する形で正面へと近づいていった。縛られた両手首と腰は、引っ張られていることと己の体重をそれだけで支えていることから、ぐりぐりと痛んだが、我慢できないほどではなかった。……モモの痛覚では。

 痛みよりも、跳ぶことなく自分の体が宙に浮いていることの方が、ひどく違和感だった。

 視界の端に、広場の隅に建てられた小屋が見えた。昨夜、モモとエルマーが警備に詰めていた小屋だ。エルマーはたぶん今も、あの中にいるはずだった。

「気が付くかな……」

 まさかこんな方法でトルネリコの前に現れる者がいようとは思っていないはずだし、さらには、それがモモであるなどとはもちろん、考えていないだろう。考えているとしたら、こんな時間になっても帰ってこないとはいったいどういうことか、とそれだろう。

 空はだいぶ赤みをなくして、闇を迎え入れようとしていた。

 モモはトルネリコの太い太い幹に背中を預けた。正面にして中央に、まるで抱きとめられるようだった。吊り下げられる、というよりは磔になっているような恰好だ。キリストみたい、と思ったけれど、きっと誰にも通じないんだろうな、とも思った。エルマーですら、モモが生まれた世界の宗教のことまで知識を持っているとは思えない。

「まあ、あたしにも知識があるわけじゃないんだけど」

 ぼそりと呟いて、ちょっと笑った。クリスマスにケーキは食べたけど、なんて、なぜ今こんなことを思い出しているのだろう。

 なんだか、胸が騒いだ。

 昨日初めてトルネリコの前に立ったときも、今朝の夢の中でも、こんなに落ち着かない気分にはならなかった。むしろ安心感すら覚えたくらいだというのに。

 なんだろう。何が始まるというのだろう。……いや、終わるのか。寒気さえ這い上がってきた気がして、モモは身震いした。

 吊り下げられて自然と下を向きそうになる目を、しかしモモは持ち上げた。悠然と広がる、トルネリコの枝。暮れゆく空を優しくかき混ぜるように揺れて、さらさらと葉が囁く。

 すわっとした浮遊感が、モモに訪れた。

連載第十一回 声

 血が繋がってなくたって、嘘をつかれていたって、生きてるならそれでいいじゃない。と、思わなかったとは言えない。モモは瞼がつくった闇の中で考えた。ただ、そんなことよりも。そんなふうに恨めしく、妬ましく思うよりも、ただ……、淋しい、と思った。
 あまりあれこれ考えると眠れなくなる、と、モモは胎児のように体を丸めて膝を胸に引き寄せた。引き寄せた膝は、硬く冷たかった。モモの脚は、もうない。とっくにわかっていたことで、何度も確認したことで、今更それについて特別憂いを感じるべきではないのだが、今夜ばかりは、義足の感触がひどくモモを打ちのめした。
 仕方がない、ことだ。終わった、ことだ。
 脚のことも、両親のことも。
 モモはそのまま、うとうとと眠りに入った。浅い眠りだった。夢の中で、声を聞いた。
 〝ちゃんと見て〟
 〝そしてちゃんと聞くの〟
 それは昼間、トルネリコの前で聞いたのと同じ声だった。ではこれは夢を介してトルネリコが話しかけているのか、とモモは自分が眠っていることを自覚した上で考えた。
 〝人は移ろうもの。変わってゆくもの。それは必然。止められないし、止めてはいけない〟
「今まさに、ここが変わろうとしているんだね?」
 〝そう。わたしの言葉は、もう必要でなくなる〟
「必要でなくなる?」
 〝わたしは長く、人にいかに生きるべきかを教えてきた。人々はそれをよく聞いた。そして賢くなり、数を増やした〟
「あなたが、ここの人々を育ててきたんだ」
 〝そうとも言える。けれど、その段階はとうに終わっていたのだ〟
 〝わたしが伝えていたのは「教え」だった。それを受けて人々は成長した。けれど、成長しきってからも人々はわたしの言葉を求め、「教え」は指示となり、わたしは「教えを授ける存在」から「支配する存在」になってしまった〟
「それでも、人々を正しく導いてきたんでしょ?」
 〝正しいことはすなわち良いことだと、そう定義することができた頃は。けれどその時期はもう終わった〟
「なぜ?」
 〝人が増えたからだ。人が増えれば思いが増える。考えが増える。道も、未来も〟
「もう、あなたの手には余る、と?」
 〝彼らはもう、ひとりで立てる。支えが必要なときは、人同士で支え合わねばならぬのだ〟
 〝そしてそれは、あなたも〟
「あたし?」
 〝そう。ひとりで、立てる〟
 〝でも、ひとりで、どうやって立っている?それを、もっと……〟
 急速に声が遠のいて、モモは慌てた。もっと訊きたいことがある。もっと、他のことが。
 〝ちゃんと見て〟
「何を?何を見るの?」
 〝ちゃんと聞いて……〟
「だから何を!?ねえ、待って!!」
「おい!!」
 力強い声に呼ばれて、モモは目覚めた。
「……え?」
小屋の中で横たわっていたはずのモモは、気がついたら巨大樹トルネリコの目の前に立っていた。すぐ脇でエルマーがモモの肩を揺さぶるようにしながら顔を覗き込む。
このひと誰だろう、と一瞬、思って、軽くめまいがした。
「あたしは……、モモ……」
「ああ、知ってるよ!どうしたんだ!」
目の前の男が、明らかに焦っていた。周囲が慌てていると当人は意外と冷静になれるものだ。なんでかはわからないまでも立った状態で眠りから覚めたのだと、はっきり自覚して笑った。
「あー、ごめん。おはよ。……で、どうしてあたしここに立ってるんだろう?」
「それは俺が訊きたい!お前、ふらふら立ち上がったと思ったら、目を閉じたままここまで歩いて行ってしまったんだぞ。俺が声をかけても知らんぷりでな」
「マジか……」
「お前、大丈夫か?夢遊病の気でもあるのか?」
「いや……」
 まだ、半ばぼんやりした状態でモモは返事をして、夢の中で聞いた言葉たちを反芻した。
「夢……?いや、あれは単なる夢じゃなかったんだ」
「……?何の話だ」
「あのさ、エルマー」
きつく眉をしかめた、もう御馴染みになりつつあるエルマーの渋面に、モモは正面から向き合った。
「な、何だよ?」
「あたしの妄想だと思って欲しくないんだけど」
 そう前置きして、モモは夢の中で聞いたトルネリコの言葉の概ねのところを伝えた。モモ個人に向けていたらしい部分は除いて。エルマーは渋面のまま少し考えていたが、それはモモの話に猜疑心を持ってのことではないようだった。
「この樹の声、というやつは俺も体験しているからな、妄想だとは思わんが……、どう解釈したもんだか……。予言、と捉えるにしても内容がいささか具体性に欠ける」
「予言……、というよりは、覚悟のように感じたけど」
「覚悟?……つまり切り倒されるであろう未来を見据えた上で、それをよしとする、ということか」
 切り倒される、という言葉にドキリとして、モモは息を飲んだ。
「そうであるなら、俺たちはこの夜間警備をできるだけ早く引き上げなければならないな」
「え?なぜ?」
「いくら情報を手に入れるために引き受けた警備だとはいえ、トルネリコを切りにやってきた者は追い払わねばならん。だが、この樹自身が切られることをよしとしているならば、俺たちが手を出すべきではないだろう」
「それは、そうだけど……」
 エルマーの意見は正しい。モモたちの本来の仕事は警備ではなく、この地方の統治状況の調査なのだ。統治状況を変えるような手出しをしてはならない。
「理解はできるが納得はできない、という様子だが」
「あー、うん、まさしくそんな感じ」
 はは、と笑ってはみたものの、それは乾いたものになった。思考をクリアにするために深呼吸をして、そこでモモは空が白々明けてきていることに気がついた。
「えっ、あたしこんなに寝てたの!?ちょっとー、適当なところで交代するって言ったじゃんかー!」
「ああ、適当なタイミングを逃してな」
「ええー!?」
 寝る前に話した内容が原因で変な遠慮をしているんじゃなかろうか、とモモが疑る視線を投げると、エルマーは素早く顔を背けた。
「と、とにかく、引き上げるにしても昨日引き受けたばかりのものを今日すぐに、としては不審がられるだろうから、もう一晩はここにいなければならんだろうが……」
「それはそうだね」
 しょうがない誤魔化されてやるか、とモモはごく普通に返事をした。
「覚悟のような気がする、と言ったあたしがこう言ってはいけないかもしれないけど、切り倒されることを回避できるなら、回避させた方がいいような気もするんだ。……もちろん、あたしたちがそれに働きかけることはできないけど」
「まだ一方向からしか事態を見れていないしな。議会派とやらの方にも、なんとか調査をしに行かねばならん」
「夜が明けきったら、あたしが行く」
「俺が行くという話だったろう」
「それはきちんと交代で警備ができてたらの話でしょーがよ。夜中一睡もしてない人を昼間も働かせるわけにいかないでしょ」
 ふん、とモモは鼻を鳴らす。エルマーは明らかにムッとした様子だったが、ここでモモが叱られるいわれはない。しぶしぶうなずいたのを確認して、モモは思わず笑った。
「いい子でお留守番しててね、兄さん」
「一言余分だよ、バカ」
 頭をはたかれそうになったのを、ひょい、とよけて、モモは巨大樹を見上げた。
トルネリコというこの樹の偉大さに、できるかぎりの敬意を表したかった。
朝食を持ってきてくれたダガーに昨晩の報告をし、エルマーが小屋の中できちんと寝る体勢になったのを確認してから、モモは出かけた。正面突破しようと思っているわけではないが、とりあえず、昨日利用した図書館の向かい側、つまり庁舎を目指す。
 道すがら、昨日モモたちがダガーに問い詰められているときに居合わせた、恰幅のいい女性にばったり出会った。名前を、セフティというらしい彼女は、モモが挨拶をすると親しげな笑顔で手招きをした。
「よかったわね、仕事もらえて」
「はい、お世話になりました、助かりました」
「そんな硬い挨拶いいのよぉ。それよりさあ、あんたのお兄さん、なかなかカッコいいじゃない?いや、あたしはもう亭主も子供もいるんだけどさあ、ここらの若い娘は皆、のぼせあがっちゃってるのよ」
「なによう、セフティさんだって喜んでたじゃないのぉ」
 いつの間にか、何人もの女がモモの周りに集まってきた。その好奇心丸出しの様子に、モモは思わず少し笑った。
「ねえねえ、お兄さん、お付き合いしてる人とかいるの?婚約者とかさあ」
「婚約者?いない、いない」
 ほとんど素でけらけら笑って、モモは手をぱたぱた振った。本人に確認などもちろんしていないが、自信を持ってそう言えた。右の義足を賭けてもいい。
「そうなの!?あんなにカッコいいのに!自慢のお兄さんなんじゃない?」
「うーん、そうですねぇ。でもあたしは、もうちょっと爽やかで、愛想よくなってくれたらと思うんですけど」
 言いながらモモは、苦しそうなほど眉をしかめたあの渋面を思い浮かべる。
「愛想いい男なんてね、むしろ要注意なのよ!ぶっきらぼうなくらいがちょうどいいって!」
「そんなもんですかね?」
 和気藹々と女同士の会話を展開しながら、モモはこれをなんとか利用させていただこう、と頭を回転させた。
「そうそう、兄さんは昨夜あたしの分も頑張ってくれちゃったので、今小屋で寝てますよ。午後には起きてくるかもしれませんけど」
 バラ色の頬をした若い娘たちの方を意識してそう言うと、控えめながらもきゃあっ、と歓声めいたものがさざめいた。昼近くに小屋へ帰れば面白いものが見られるかもしれない、と忍び笑いを漏らしつつ、モモはセフティに問いかけた。
「それにしても、トルネリコは立派ですね。どのくらいの樹齢になるんですか?」
「さて、どのくらいなんだろうねえ。誰も正確なことはわからないんじゃないかねえ、長老さまならご存知かもしれないが」
「声が降りてくる……、という言い方が不適切なら申し訳ないですが、あれは本当に驚きました。なんと表現していいのかわかんないですけど、とにかく、素晴らしかった……」
 こればかりは取り繕った物言いではいけないだろうと、感じたとおりを言葉にする。おかげで丁寧な物言いが不恰好に崩れたが、セフティは言葉づかいよりも、モモのその心根に歓心を寄せてくれたようだった。
「ここの者らはね、その声に導かれて、守られて生きてきたんだよ」
 目元をふわりと柔らかくして、丁寧に言ったそのセリフを皮切りに、セフティはトルネリコを取り巻く事情を教えてくれた。
 曰く。この地方では、田畑に関することから法律、相続に関することまで、とにかく決まり事というものはすべて、トルネリコに伺いを立てる方針で平和を保ってきた。それがいつ始まったものなのかは、よくわからない。この方針に亀裂が入り始めたのは、この地方が「ホウル国の一部である」という枠組みがはっきりとしてからだ。常識的に考えて、地方の代表は樹木であると申告することはできない。そのため、形ばかりの議会を置き、議員を選出した。この議会で地方を運営している、ということにしたのである。これがすでに50年以上前のことだという。しかし、形ばかりであったはずの議会は次第に実権を持つようになり、トルネリコに伺いを立てることなく行政を行うことが多くなった。それに伴って、トルネリコにも変化があった。昔はトルネリコの前に立てば誰もが声を聞くことができたが、次第に、聞こえない者が出てきたのである。生まれた時から一度も聞いたことのない者もいれば、以前は聞こえたのにある日突然聞こえなくなる者もあり、その原因はわからなかった。
 そういうあらゆる要因から、現在、議会の実権をより強固なものとしてトルネリコを地方の政治から廃そうとする議会派と、昔からの方針に立ち返って議会の実権を無効化させたいトルネリコ派が対立を深めているらしい。
「なるほどねー」
 セフティにもらった林檎を齧りつつ呟いて、モモはぶらぶらと歩いた。昼をめがけて、エルマーの寝ている小屋を突撃するわ、と笑う女たちと別れ、モモは予定通り庁舎の方面へ進んでいた。
 だいたいの仕組みも事情もわかった。モモたちにとってここから重要なのは調査結果として「対立している現状」を報告するか「対立の末どうなったか」を報告するか、ということである。一度、エルマーと相談をしなければなるまい。
 モモは林檎を芯だけになるまで綺麗に食べて、道端の植え込みに放り投げた。
「行儀の悪い娘だなァ……、所詮〝ツギハギ〟ってことか」
 いかつい肩が、ぬっと現れて、モモの上に影を作った。逆光なのに両目が妙にギラリと光る。
「ロベン……!あれ?ひとりなの?ポタラは?」
「いちいち一対で考えるのをやめろ。お前の方こそ相方はどうしたんだ、あのイエローストーンの坊ちゃんは?さては昨夜あいつに手ェ出されて気まずくなった、とか?」
「んなわけあるかい。名門を売りにしてるにしちゃあ発言が下品だなあ」
 そんなやつに行儀が悪いだなどと言われたくはないわ、とモモはロベンに舌を出した。ポタラが一緒にいるならともかく、ロベン単体と中身のない会話などしたくはない。さっさとその場を離れよう、と思ったモモだが、ふと思いついた。
「ねえ、ロベン。君らの今回の任務ってさ、もしかして依頼人が議会の人間だったりする?」
「その質問に、俺がきちんと答えてやると思うのか?」
「思わない」
 モモは即答して、そして苦笑した。ダメでもともと、な質問だったが予想以上に無駄になるのが早かった。
「ま、お互い、それぞれの仕事を頑張りましょ、ってことで」
 ひらひらと手を振って、モモはロベンの巨体を回り込むようにして先へ進んだ。
「待て、ツギハギ。答えてやるよ」
「……は?」
 呼び止められるとは思わず、しかもそのセリフが信じがたいものだったので、モモは反射的に固まった。
「は?じゃねえよ、人にものを訊いておいてその態度か?答えてやる、って言ってるんだ。それだけじゃない。お前たちの任務の役に立ちそうな情報を流してやってもいい」
「……どういう心境の変化……?いや、親切心が起きたわけじゃないよね、うん。取引内容は何?」
 鋭い眼光のロベンを油断なく眺める。高慢な態度はいつものことだったが、なんとなくいつもより余裕がないように見えるのが気になった。
「ふん、フック社のやつはこういう件では話が早いな。取引内容は簡単だ。情報をやる代わりに、お前にポタラを助けてほしい」
ポタラを?どうかしたの?」
「昨夜から、一向に部屋を出ようとしない。理由を聞いても、女でないとわからない、の一点張りだ。正直、お手上げだ」
「へええ……。サンスーシ社の純血エリート様でもお手上げだ、と認めることがあるんだ」
 モモがにやにやすると、ロベンは心底嫌そうに目を眇めた。もう充分に目線は上にあるというのに、顎をくい、と持ち上げてさらに高みからモモを見下ろす。
「取引に乗るのか?乗らないのか?」
「乗りましょ。情報もらえて、ポタラの役にも立てるなら、あたしとしては何の損もないし」
「……そうか。その言葉、しっかり聞いたぞ」
「ん?」
 ロベンの声が急に低くなったかと思うと、その巨体からは想像できぬほどの素早さでモモとの距離を詰められた。マズい、と思った瞬間に、全身を衝撃が走り、モモの目の前は真っ暗になった。

 

 

※次回更新は5/10頃の予定です。

連載第十回 出生

 兄妹、という設定付をしてしまった以上、仕方のないことだとは思うが、この狭い小屋に同年代の女性と二人で過ごす、というのは気まずいものがある。と、いうエルマーの心配を知ってか知らずか、モモは何のこだわりもなくあっさり横になり、仮眠を取り始めた。小屋には寝台も何もなかったため、床に転がることになるが、それにも躊躇った様子はない。危機感がないのか猜疑心がないのか、はたまた相方を男と思っていないのか。そんなことを考えるのもバカバカしくなって、エルマーもまた横になって瞼を閉じた。

 何かが香ばしく焼けている匂いで目覚めてみると、肩も背中もバキバキになっていてひどく痛んだ。

「ああ、おはよう兄さん」

 木箱のようなものを組み合わせた上で、パイのようなものが湯気をたてていた。匂いのもとはこれか、と思う反面、いつの間に、と不思議になる。

「さっき、ダガーさんが持ってきてくれたんだ」

「……そのときに起こせよ……」

「いや、起きないと思わなくて」

 仮眠、という行為そのものに慣れていないことが見透かされている気がして、エルマーはまた軽く舌打ちをした。それに苦笑したようだが、モモは特に何も言わなかった。

 椅子として使うのも木箱のようなもののようだ。エルマーはひとつを引き寄せて、パイの前に座った。モモが自分の分を一切れ取って、お好きにどうぞ、とばかりに押して寄越す。

「もうすぐ日が暮れるけど、どうする?順番に眠りながら見張る?」

「ああ……、でもそれなら同時に仮眠したのは失敗だったな……、というか、本当にやるのか、夜間警備」

 後半は声をひそめて、エルマーはパイに喰いついた。何の肉なのかはよくわからないが、ミートパイのようだ。肉とともに煮詰めてある野菜はタマネギだろう。

「ひとまず今夜くらいはちゃんとやらなきゃじゃない?ホントに襲撃があったら、それはそれで収穫だし」

「収穫ってお前な……」

 こともなげに言うが、一応の訓練は受けているとはいえ、ふたりとも丸腰同然だ。

「力づくでねじ伏せようという短絡的なのが相手なら、もうちょっと違った対応になってるんじゃないかと思うんだよねー。たぶん、あの長老って人も、本当に襲撃してくるとは思ってないんじゃないかなあ。ただ、完全にない、とは言い切れないから見張り置く、って程度で」

「だからこそ俺たちみたいな得体の知れない旅の人間にでも任せられる、ということか。だが、だとしたらその議会派、ってかなり陰険だな。襲撃はないだろう、しかしあるかもしれない、っていう、つまりはどう出てくるのかわからない状況というのが一番精神的に消耗する。それを狙ってる、ということだろ」

「でしょうねー。……意見、一致したね」

 意味ありげにニヤリとするモモの顔を、エルマーは反射的に睨みつけてしまった。どうしてこう反応が軽いのだろう、この娘は。意図的な軽さかもしれないと思えるからこそ、エルマーには妙に腹立たしかった。

「今までに、こういう事案は経験ある?」

 睨まれたことなど少しも気にとめていないように、モモはパイを頬張りながら話を続けた。

「あるわけないだろう、さっきも言ったが、調査任務はお前同様初めてだ」

「いや、そうじゃなくてさ、こういう、不思議な樹ってやつは、他の球にもあるもんかな」

「まあ……、あるんじゃないか」

 エルマーはジャンパーになるまでに叩き込まれた膨大な情報を脳内でさらった。

「どういう基準でどの程度まで不思議、とすべきかは俺に定義はできないが……、樹木を信仰の対象としている人々はあらゆる球に存在している。どの球、と例を挙げるまでもないほど無数で、つまり珍しさはほとんどないわけだな。樹木の形象に何を見ているかには違いはあるが……生命、不死、知恵、多いのはこのあたりか。繰り返し再生する能力がとりわけ大きな要因だろうな。信仰の対象とはいかずとも、祭事の歌やおとぎ話の主軸になっている例も含めれば、樹木にまつわる伝承のない球を探す方が難しいくらいなんじゃないのか。まあ、トルネリコのように、ここまではっきりした〝統治〟と認識されている例は俺も知らないし、おそらく極めて珍しいだろうがな」

「ははあ……、よくご存じで……。そういや神社にしめ縄みたいなの巻いた大きな樹、あったな……」

「ジンジャ?お前、そういや出身どこなんだ」

「ん、108球のー、えーとエリアでいうと数いくつだっけ、日本、って言ってわかる?」

「108球!」

 最大級の規模の球のひとつだ。エルマーはまだ跳んだことがない。あの球を制覇できたら、あとはもうどこへ跳んでも困らない、とさえ言われる。

「108球出身のジャンパーこそ他に知らないぞ……、というか、ああ、お前も不思議な樹に関係が深いじゃないか」

「え?」

「その脚。義足なんだろう。原材料であるカグの樹も、充分不思議な樹だ」

「ああ……、なるほど」

 感心した、というにはだいぶ声のトーンを落として、モモが頷いた。

「複数の球に生息する樹、という意味では奇異なものではないのに、どこの球においても特殊な種の樹として扱われ、しかも生態が明らかになっていないのも同様。ハブのサンスーシ社研究室においても、生息球の完全な把握はできていない状態だ。なにせ、発見してから再調査に向かうと樹がなくなっている、という例も多いそうだしな……木材を使用した義足で世界間を跳べるようになるのだから、樹自体が跳んでいるのではないかという説もあるが、定かではない……、とにかく他に類を見ない樹だ」

 知識としては頭に入っていたカグの樹の特性をさらうと、まさしく不思議な樹の代表であるように思われた。

「あの長老も、お前がトルネリコに気に入られたようだ、と言ってたし、お前自身も何か感じるものがあったんだろう?何かしら、共鳴したんじゃないのか、その木製の脚と」

「どうかな?関係ないんじゃない?」

モモが首を傾げて、笑った。笑ってはいたが、どこか失笑めいた、温度のない笑いだった。また義足への批判をしようとしているのだと取られただろうか、とエルマーが口を開きかけると、その前に彼女の方から話題を変えた。

「トルネリコの詳細はまあここにいれば知ることは難しくないと思うけど、問題は、議会派とやらの方よね。明日の昼間はそっちを調べに行かなきゃだよね。できればそちら、エル……兄さんに任せたいけど」

「なんで」

「お堅い方面の調査、得意そうじゃん」

 ぺろっとそんなことを言うモモの顔に先ほどの感動の余韻は欠片も見えず、なんとなく騙されたような気になる。

「……それは、俺がサンスーシ社にいたからか」

「いや別に?あたしの調査姿勢より堅実だから、合いそうだなって思っただけ」

 肩をすくめて、モモはパイをもう一切れ頬張った。

 それきりどちらからも口を開かないまま食事をして、日が落ちかけた頃にモモが古そうなランプに火を入れた。それもダガーが持ってきてくれたもののようだ。小屋の戸口に木箱を引っ張って行ってそこへふたり腰を落ち着け、ランプは足元に置く。

 巨大樹の方を窺うと、広場の中央に備えられていた燭台には、いつの間にか火が灯っていた。

「ねえねえ」

 モモが足をぶらぶらさせる。小屋の壁で、影が大きく揺れた。

ポタラたちは、どんな任務でここに来てたのかな」

 そういう切り口で尋ねて来るか、と思うのは穿ちすぎだろうか。それでも、ここまで待った上で話題に上らせてくれたのだから、エルマーとしても有難く乗っておくべきだった。

「さあな。ジャンパー同士であっても、任務内容をバラすのはご法度だ。フック社だって同じだろ」

「そりゃそうだけど。ハブ以外の球で同業者に遭遇するって結構レアじゃない?」

「あいつらは抱えてる顧客も多い。どこでどう重なってもおかしくはない」

 サンスーシ社の任務は、あらゆる世界のあらゆる名門とされる限定された顧客から寄せられるものがほとんどだ。それぞれ客によって依頼に個性が出るため、専任担当制でジャンパーを割り当てておいた方がお互いに都合がよい。

「……ロベンが言っていたことが、気になるか」

 話に乗ったからには、避けるわけにもいかないだろうと、エルマーは自分から核心に触れた。

「まあ、気にならないと言えば嘘になるけど」

 モモがほのかに微笑んだ。その顔をできるだけ見ないよう、エルマーは膝の上で組んだ両手に目を落とす。

「俺は、ロベンが言っていたように、イエローストーン家の人間だ。お前がサンスーシ社における血筋の階級をどの程度知っているのかわからないが、おそらく名前だけは聞いたことがあるだろうと思う。サンスーシ社の理事を務める五つの一族の中の、ひとつだ。母はイエローストーン家の長女。父は入り婿で、名門と呼ばれるほどの家柄ではないにしろ、もちろん、純血だ」

 話しながら、エルマーはその内容の空虚さを感じた。血筋。名門。家柄。

「純血の子供は、生まれながらにしてジャンパーだ。技能を身に着けて登録をするまではジャンパーではない、という意識はないに等しい。俺もそうだった。当然のようにジャンパーになるための教育を受けたし、それ以外の道を考えたことはなかった。そして俺はジャンパーになった。17のときだ」

「17?でも、確か、ジャンパー歴は2年だって……」

「ああ、ジャンパー登録したのは18だ。サンスーシ社の規則なのか、単に伝統に則った慣例なのか、登録の前の1年を見習い期間として、身内のジャンパーの補助をする。……ま、身内のジャンパーってのは大抵が親だし、補助というのは名ばかりで、実際は顧客の引継ぎだ。親が抱えていた顧客のすべて、もしくは一部を受け持たされることになるんで、その顧客情報を頭に叩き込み、顧客にご機嫌伺いの挨拶に行く。これが本当に、丸1年かかる」

「うわー……。世界が違うわ。あ、球のことじゃなく」

 ぱっくりと口を開けるモモに、エルマーは苦笑する。そりゃあそうだろう、こんなことをしているのはサンスーシ社だけだ。

 サンスーシ社だけ。この現象を、純血たるサンスーシ社社員は誇りにしてもいるのだけれど。

「この見習い期間に上手くいかない者はジャンパーを諦めるか、サンスーシ社を出るんだが、どっちもほとんどない」

「でしょうねえ。フック社に純血ジャンパーなんて何人いるやら。ホァン社もたぶん同じだと思うけど」

「純血であることとサンスーシ社の社員であることはほぼ同意だからな。これを一対にして、血統の証明だと奴らはのたまう。もちろん、純血であってもサンスーシ社から出る者はいる。さっき言ったように、極めて稀ではあるがな。……だが、その逆はない」

「逆……?」

「純血でない者が、サンスーシ社には入れないし、いられないということだ」

 モモが、エルマーを見て静かに首をかしげているのがわかった。疑問による仕草というよりは、エルマーの自嘲を読み解こうとするように。自嘲。エルマーは間違いなく、そういう種類の笑みを口元に浮かべているはずだと、自覚していた。

「俺は、どうやら純血ではなかったらしいんだ」

「……どういう……?」

「見習い期間を終えて、ジャンパー登録をして、1年が経過した頃だった。俺は、自分でも知らないうちに社内でそこそこの有名人になっていた。ほら、あれだ、目的球誤差ゼロ、ってやつだ」

「ああ……、まあそりゃ有名人にもなるでしょうね」

「口に出すのも恥ずかしい単語だがな、とにかく純血の名門は名誉や栄光が大好きだ。有名になっていくことに俺も鼻高々だったし、両親も喜んでくれているものと思っていた。……だが、違った。両親は、特に母は、俺に注目が集まっていることに不安があった」

「不安?」

「……ふたりがな、俺のことを話しているのを聞いてしまったんだ。父は俺を褒めていた。さすがイエローストーン家の血筋だ、と。母はそれを訊いて、そんな言い方をしないで頂戴あなたの子でもあるのだから、と言った。父は笑って、そうだね私の教育の成果も出ていると思っていいのかな、と返した。……俺は、このやりとりが、なんだか、違和感だった」

 父が血筋を誇る発言をしたのに対して、母の反応は妙に過敏なものだった。それがなんとなく、引っかかった。だから、調べた。

「家の使用人たちに訊いて回ったら、母の結婚の経緯がわかってきた。母は、結婚前に妊娠していたんだ。それを知った祖父が、慌てて、父と結婚をさせた。……つまり、俺と父とは血が繋がっていなかったんだよ」

「……真偽を、確かめたの?」

「母に直接問いただした。母は頑として、俺を父の子だと言ったが、あれは嘘をついている顔だった。俺には、わかる」

 箱入り娘の典型といおうか、母は嘘をつくのが下手だった。それこそが彼女の美徳でもあったのだろうけれど。このときばかりは、なんとしても上手に嘘をついて欲しかった。

「そんなことをしているうちに、どこから漏れたものだか、社内に俺の素性について噂が流れ始めた。父親が誰かわからぬらしい……、それはつまり、純血ではないのではないか、という疑いに繋がる」

「……それで、サンスーシ社を追い出された、とか?」

「追い出されたわけじゃない。自分から出た。まあ、あのままいれば、いずれは追い出されたのかもしれないけどな」

 そう、とうなずいて、モモは何か考えるようにうつむいた。こんなことは、話さないままでもパートナーとはやっていけるだろう、と思っていたのに、こんなにも早く打ち明ける羽目になるとはエルマーも思わなかった。これでパートナー解消を申し出られても、仕方がないことだ。

「あのね、こんな話を聞いてしまったからには、黙っておくのもなあ、と思うから言うけど」

 モモが、うつむいていた顔を上げた。

「あたし、エルマーがパートナーになる直前に、ポタラに頼まれたの。エルマーの仕事の様子を教えて欲しい、って」

ポタラに?」

「うん。エルマーのご両親に頼まれたんだって言ってた」

 それはまったく予想外だった。喜べばいいのか呆れたらいいのか判断がつきかねて、結局どっちつかずに眉を寄せるだけになる。モモが慌てて、まだ何も報告みたいなことはしてないよ、と付け加える。

「戻ってきて欲しいんじゃないのかな?」

「さあな。どっちにしろ、もはや戻りたい、ってだけでサンスーシには戻れないさ。純血の件がはっきりしないことにはな。……それにもう、どっちでもいいんだ。いや、どっちでもいいってことにしたいんだ」

 純血の集うサンスーシ社。その極上の繭から出てみれば、そこは、跳んでもいないのに別世界だった。

「純血こそが真のジャンパーだ、なんて本気で思ってた。でも、フック社へ来てみれば純血であろうがなかろうが、誰もがジャンパーの仕事をしている。歴代最高の依頼数をこなしているピーター殿も純血ではない。俺は、自分が信じていた価値観がバカバカしくなったんだ。……知ってるか?サンスーシ社のハンター任務がどんなものか」

「いや……」

「顧客情報さえ叩き込んでしまえば、依頼はそう難しくない。あのときと同じものを頼む、と言われ同じものを同じ球に取りに行く。それがサンスーシ社のハンター任務だ。リストから依頼を拾う、なんてことはしない。依頼の品を求めて情報収集する必要もなきに等しい」

 ハハッ、と笑い声が漏れた。

「俺は、これまでの自分の価値観を捨てようと思った。純血を貴ぶのも、純血でない者を見下すのも。価値観くらい、すぐ捨てられると思った。……だけど、全然捨てれてない。純血ではないと言われれば純血だと主張したくなるし、義足ジャンパーを見れば反射的に汚らわしく思う。……すまなかった」

「えっ?」

 モモが大げさにのけ反る。そんなに謝罪ができない男に見えていただろうか、などとまた穿ちすぎた考えがよぎる。

「いや、あたしのことは、別に……。慣れてる、ってほどじゃないけど、まあ、たまにあることだし。仕事していくのに支障はなさそうだし。いいよ、捨てなくても。価値観」

「捨てなくてもいい、って……」

「だってさあ、顧客の定番の品を取りに行くだけ、なんてそんな言い方したけどさあ、あたしそんなお偉いお得意様の仕事請け負うなんて絶対嫌だもん。できる気がしないよ。だからさ、今までしてきた仕事は間違っていたんだ、みたいな考え方、しなくていいと思うよ」

 あっけらかんと笑うモモの言葉は、特にエルマーを励まそうとかそういう意図で口に出されたようには聞こえなかった。単に自分の考えを伝えただけだ、というモモの姿勢に、エルマーは改めてこの同僚に関心を抱いた。

「……どうして、ジャンパーになろうと思った?」

「え?」

「俺は、純血の家で生まれ育ったから、ジャンパーになる以外ほかに道はなかった。だが、お前は違うだろう?」

 純血でもなく混血でもない、要するに、ジャンパーの血を持たぬ者がジャンパーとなることを選ぶ理由が、素直に不思議であった。

「んー、それしかなかった、っていう意味では、あたしも同じだよ。あ、失礼、同じではないか。あたし別に名門を背負ってるわけじゃないからねえ。でも、うん、まあ、ジャンパーになるしかなかったんだよ」

 言葉を探すように、また、思い出すように、モモの視線が小屋の外へ向いた。

「あたしはハブ生まれじゃないし、脚をなくすまでジャンパーっていうものが存在することを知らなかったし、それどころか、自分が住んでる世界の他にも世界があるんだってことも考えたことがなかったんだ。まあ、今も異世界って何か、球って何か、って説明できるかっていうと怪しいんだけどさ」

「お前それは……」

「頭悪いんだよ、悪かったなあ!」

 モモはわざとらしく頬を膨らませるが、エルマーが言及したかったのはそこではない。

「いや、脚をなくすまで、って」

「ああ、それかー。あたし、16歳の冬までは脚あったんだよねー。それが、誰かよくわかんないやつに切り落とされちゃって。まあ、生きてただけ幸運なんだけど。このときに両親は殺されちゃってるし」

「っ!?」

 本物の絶句、というやつを、初めてしたかもしれない。エルマーは、まさしく言葉もなくモモの顔を凝視した。そんなふうに、さらりと言えるようなものなのか、と一瞬頭に血が上ったが、ここで自分がモモを怒鳴るのはおかしい。

 そのエルマーの様子を、モモはちらりとだけ見て微笑み、また外に視線を戻した。

「何が起きたかわからなくて、気がついたら目の前に血だらけで倒れている両親がいて。偶然、仕事で跳んできたピーター兄さんがあたしをハブに連れてきてくれて。……気がついたら、脚がなくて。で、そのとき幸運なことに、ちょうどカグの樹の木材が手に入ったところで、これまた幸運なことに、あたしに適合したんだなー。……そういうわけ」

「犯人は、わからないのか」

 当事者であるモモが、どこまでもさらりと、けろっとして、あっけらかんと言うものだから、特別意識しているわけでもないのに、エルマーの声は妙に沈んで聞こえた。

「それが、さーっぱり。心当たりもなければ、手がかりもほとんどなし」

「お前が訊いてた、トクラナという言葉は、これに関係があるのか」

「唯一の手がかり、というやつかな。あたしがあの日、あの場で聞いた言葉……。でもどんな意味なのか全然わからないんだなー」

「その言葉の意味を探すために……いや、犯人を捜すために、ジャンパーになったんだな」

「……別に、それだけのためでもないよ」

 ようやく、というべきか、モモは少しだけ表情を硬くした。

「両親亡くしたってことは、自分で稼いでかなくちゃいけなくなったってことだもの。そこに、こういう仕事があって、ちょうど適正なようだ、って言われたら、そりゃあ乗っかるよ。なるしかないでしょ、ジャンパーに」

「そうだな。……すまない」

「なんでエルマーが謝るのー?」

 あはは、とモモが笑う。その笑みが、エルマーには痛かった。同情ではない。憐れみでもない。いや、むしろ、エルマー自身への憐れみだ。愚かな、自分。

「嫌なことを、思い出させたようだから」

「ううん。だってエルマーにだけ話させといて、自分の話をしないのはフェアじゃないでしょ。それに……そんな嫌なことだと思ってないから」

 唇で微笑んだモモが、ブーツの上から脚を撫でた。無意識のように動いたその手は、義足を労わるしぐさに見えて、けれど決してそうではないと思わせるに充分なそっけなさがあった。エルマーは口にする言葉を、見つけられなかった。モモがうーん、と背筋を伸ばした。

「ねえ、エルマー。眠くないならさ、あたし、先にもう一度仮眠取らせてもらってもいい?適当なところで起こしてよ、交代するから」

「……ああ、構わない、寝ろよ」

 先に眠れ、と言われてもとても眠れそうにはなかったので、モモの申し出はむしろ有難く、エルマーは快諾した。

 気遣うべき相手に気遣われたのだ、とエルマーが気がついたのは、すでに横になったモモが背後で寝息を立て始めてからだった。

 

次回更新は4/20頃の予定です

連載第九回 トルネリコ

 トルネリコが近づくにつれて、周囲の様子に変化が見られた。図書館で感じた、誰が何をしていようが気に留める者などいないというような、都市気質の雰囲気が薄れ、代わりに排他的な空気が濃厚になってきた。端的に言うと、住民たちの好奇の目を感じるようになったのだ。
「もうちょっとで着くかな、兄さん」
「……ああ、そろそろだろう」
 些細な会話にも耳をそばだてられていると思って良い。兄さん、と呼ばれることに抵抗感はあるが、仕事なのだから仕方がない。
 街の真ん中に森がある、と今朝モモが言ったのが、トルネリコという樹のことであったようだ。森だと思ったのも無理からぬことだ、とエルマーも思った。ここまで近くへ来なければ、とても一本の樹だとは信じられぬほど、その枝葉は高く広く厚く、青々としていた。
 樹の根元まで数十メートル、というところまで来て、エルマーとモモはまるで示し合わせたかのように同時に歩みを止めた。一瞬、目的を忘れて、ただただ巨大樹を見上げる。荘厳、と言うにふさわしい立ち姿であった。これだけで、支配者であるということに納得してしまいそうになる。はあ、と隣でモモが熱を持った息を吐いた。何を語りかけられたわけでもないのに、エルマーは、それにゆっくりとうなずいた。
「何か、用か」
 不意に声をかけられて振り向くと、真っ黒な髭をたくわえた男が立っていた。警戒心むき出しの強張った頬に、エルマーの眉間もまた強張った。
「はじめまして、こんにちは!あたしたち、トルネリコの夜間警備員を募集してるって聞いて来たんですけど……、応募はどこに申し出たらいいんでしょうか」
 エルマーを押しのけるようにして、モモが前に出た。目の前の男は間違いなく初対面だというのに、にこやかに、快活に話しかける。
「夜間警備員?」
 男が訊きかえしたその言葉を、エルマーは自分の口から出てしまったものなのではないかと、一瞬思った。そんな募集、モモはどこで知ったというのだろう。
「そんなのは聞いたことが……」
「ねえ、あれじゃないかね?長老さまが、見張りを立てるのに人が足らないとかなんとか言ってたじゃないか」
 首をかしげる髭の男に、どこから現れたものだか、恰幅のいい女性が声をかけた。
「ああ、そういえば……。あれ本当に募集をかけたのか?」
「そうじゃないのかねえ?こないだ、酒蔵の息子たちが何か張り紙を配っていたけれど?」
「長老に確かめた方がいいな」
「そうだね。……ちょいとー!長老さまのところまでひとっ走りしておくれ」
 たっぷりとしたスカートのすそを持ち上げて小走りに、その女性はすぐそばを通りかかった少年を呼び止めていた。髭の男はエルマーとモモに向き直ると、このまま待つようにと短く伝えて、ふたりの前から姿を消した。エルマーは今のうちに、と素早くモモに耳打ちで尋ねる。
「……おい、その募集の情報、いつの間に聞きつけてきたんだ」
「今朝覗いたお店のショーウィンドウの内側に張り紙あった」
 同じく耳打ちを返してきたモモに、エルマーは思わず舌打ちをした。してしまってから内心で慌てたが、幸い、モモ以外には聞こえていなかったようだ。
 こうなってしまった以上、なんとかその夜間警備員に採用されるしかない。好都合といえば好都合だったが、これで果たして効率よく情報が集められるかは定かではない。少なくとも、対抗勢力と予想される議会派とやらの方の調査は困難になるのではないだろうか。そう考えるうちに自然、渋面となってしまっているエルマーに、モモはなおも何か言おうとしたようだったが、髭の男が戻ってきたために開きかけた口を閉ざした。髭の男の半歩前を、小柄な老人が杖を突きつつやってきた。皺の多い頬であるのに、妙につやつやと輝いて見える肌を持つその老人は、好々爺とした笑顔をふたりに向けた。
「いやあ、お待たせしたようだね」
「いえ!わざわざご足労いただきましたようで、ありがとうございます」
 モモがにこにことお辞儀をすると、老人は嬉しそうにふぉふぉ、と笑った。
「お若いのに随分としっかりした挨拶をしてくださるね。ウチの孫たちにも見習わせたいものだよ。……さて。夜間警備の仕事に、応募してくださるとな?」
「はい。旅の途中なものですから、短い期間となってしまうんですが、それで差し支えなければ、是非」
「ふむ。そう物騒なことをお願いするつもりはないのだがね、それでも警備というからにはそれなりに、腕っぷしというものが欲しいんだがねえ。失礼なことを言うようだが、その、お嬢さんはとてもそうは見えないがねえ?」
「あはは!それはむしろ嬉しいお言葉です。実は結構、やるんですよ?それに、あたしだけでは確かに頼りないかもしれませんが、兄は、本当に腕が立ちますし」
 兄は、と言いながらチラリ、とモモはエルマーに視線を流す。エルマーは黙って頭を下げた。下げてから、笑顔を作り損ねたことに気がついた。
「すみません、昔から無愛想で」
 誰が無愛想だ、と内心で毒づきつつも、こうなったらもう喋りはすべてモモに任せることにして、エルマーはそっと横目で周囲を確認した。先ほどの恰幅のいい女性をはじめ、近隣住民と思われる人々が数人、ふたりを窺うようにしていた。敵意を感じるような視線はない。むしろ、エルマーたちが敵意を持っているのではないかと疑うような目つきをしていた。
 エルマーが思うに、彼らはこの巨大樹・トルネリコを信仰の対象としている者たちなのだろう。その信仰を基盤とした社会構成が古くからあり、それを守ろうとしている者たちと、時代に合わせた行政を遂行して行こうとする議会の流れが衝突しているのだろう。
「頼りになりそうなお兄さんだねぇ。お二人はおいくつかな?」
「あたしが18、兄が22です」
 実年齢よりも上下にふたつずつズラすことにしたらしい。外見的な年齢からいえば、まあ妥当だ。
「そうだ、名乗ってなかったですね、失礼しました。あたしはモモといいます。兄はエルマー。ヤード国の出身です。ホウル国には初めてお邪魔しましたので、勝手のわからないことが多いですが、お役に立てましたら」
「ほほう、ヤードから。それは長旅でございましたなあ。ここから、どちらへ?」
「ホウルの首都へ向かう予定なのですが……、宿賃の目算を誤りまして、少々、懐が頼りないのです。首都へ出てしまえばもっとお金がかかるだろう、ということで困っていたところに、張り紙を見つけまして、これは幸運だ、と応募したわけなんです。まったく、田舎者ゆえの世間知らずでお恥ずかしい話でございます」
「なるほどなるほど。しかし、どんなに短くても三日ほどはお願いしたいが、お時間はよろしいのかな」
「はい、それは構いません。時間はあっても金はない、というやつです」
 あはは、と笑うモモに、長老もまたふぉふぉ、と笑った。よくもまあ、そうすらすら口から出まかせが言えるもんだ、と呆れつつも、モモが話した内容を頭の中で反復する。これに矛盾が出るような発言と行動は避けなければならない。
「ふむ。お願いしてみてもよさそうだの」
「長老!そんな簡単に!向こう側の、諜報員かもしれません!」
 髭の男が身を乗り出して気色ばんだ。向こう側、という言い方に、エルマーははっきりした対立の図式があることを感じとる。
「そうであったとしたら、トルネリコが決して傍には置かぬ。無用な心配だよ、ダガー。……と、言うわけでのう、儂はあなた方にお願いしてもよいと思うのだが、それを決めるのはトルネリコご自身なのでなあ」
「はあ……」
「ははは、困惑されるのも無理はないのう。しかしまぁ、一度体験されるのが手っ取り早かろう。……ダガー、お連れしなさい」
 ダガーと呼ばれた髭の男は、さすがにぽかんとしているモモをちらりと一瞥して、不本意そうにうなずいた。こちらへ、と促されてゆるく傾斜になった小道を進む。巨大樹をとりまくようにして続いているらしい小道の突き当りは開けた平地になっていて、おそらくは人工的にならして広場としたものと思われた。簡易的な小屋が斜面ギリギリに建てられ、その対角線上に巨大樹・トルネリコが腰を落ち着けていた。巨大樹を守るように、平地の中央には3本の燭台がある。夜になればここに火が入れられるのだろう。つまりは、ここがトルネリコの正面ということになるわけだ。
 先導していたダガーが深々と一礼して巨大樹の前へ進み出ていくのに倣い、エルマーとモモも慌てて一礼をする。その後ろから、一人の少年に付き添われて長老がやってきた。
「お二方、そのままもう少し、前へお進みくだされ。トルネリコの前で、深呼吸をして、心を静かに、立っていていただけますかな。ああ、目は開いたままで構いませぬよ。閉じてもよいがね」
 長老の言葉に従って、エルマーとモモは巨大樹のごく近くまで歩を進めた。ダガーは後ろへ退いて長老の隣に控えるように立った。
 深呼吸をする前に、エルマーはちらりと横目でモモを見た。けれどもモモはこちらを見ることなく、すでにトルネリコに魅入られたように視線を上へ持ち上げていた。エルマーも視線を前へやり、ゆっくりと、深呼吸をした。瞼は、自然に目の上へ降りてきた。
 途端に、爽やかな木の葉の香りが、すう、と鼻を通り額へ抜けた。
 言葉が入ってきた。けれどもそれは、目でも、耳でもないところを刺激するものだった。けれどもそれでも、確かに言葉であった。


 〝見届けて〟
 〝ただ見届けて。それだけが〟
 〝最後の望み〟
 〝そして貴方も、上げられる、伏せたその顔。差しだせる、下げたその腕〟
 〝見届けて〟


 ぐわり、と真上から頭を鷲づかみにされたように感じて、エルマーはハッと瞼を開いた。視界に飛び込んできた、幹の濃き色に、一瞬まだ閉じた世界にいるような気がして、けれどすぐにそうではないと悟った。
「これは……」
 思わず、声が出た。今の現象に対する驚きもあったが、自分の予想が裏切られたことに対しての驚きもあった。
 これは、信仰などではない。ここの住民たちは、ただこの巨大樹の霊験を信じているわけではない。この巨大樹の言葉を体験してるのだ。その言葉が確かに道を示すものであると、体験してわかっているのだ。信仰などではない。これはまさしく。
「統治だ……」
 道を知る者による、統治だ。
 ふ、と空気が動くのを感じて隣を見ると。
「え……」
 モモは初めから開いていた目をいっそう大きく見開いて、両手を巨大樹の方へ差しだしていた。その手を、引き上げてもらえることがわかっているかのように。おい、と声をかけようとして、声が出なかった。それは澄んだ水に手を入れるのを躊躇う感覚と似ていた。
 そう長い時間ではなかったと思う。モモの腕はするすると降りてきて、首が痛くなりそうなほどに見上げられた顔も、ゆっくりと伏せられた。モモも同じ言葉を受け取ったのだろうか、いや、違うものだろう。
「……支配じゃない」
 ぽそりと、モモが言った。
「支配じゃない、これは守護だ……、守り治めているんだね、ここを」
「……ああ」
 統治、という表現を柔らかくすれば、そういうことになるだろうか。その言い回しはエルマーにも好もしく思えた。
「お嬢さんの方が特に気に入られたようですな」
 長老が、にこにことそう言った。その笑顔は、どこかホッとしているようにも見えた。唇を震わせているモモに代わって、エルマーは端的に尋ねる。
「採用していただけたんでしょうか」
「ええ、そのようですよ」
 満足そうにうなずき、長老はゆっくりとふたりに近づいてきた。
「よろしく頼みます」
 握手を求められ、骨ばった、けれども力強い手と握り合った。
「夜間警備の内容は単純です。夜の間、トルネリコに近づく者がないかどうか、見張ってくださればよい。あの小屋を使ってください。食事はこちらで用意させましょう」
「……トルネリコに近づいて何かしようという者が、いるということですか」
「……現れるかもしれない、ということだね。それを知らなければ仕事はできんかね?」
「いいえ。ただ、どのようなことをされる可能性があるのか、それを知っておいた方が防ぎやすいとは考えます」
「うむ、道理じゃの。トルネリコを切り倒そうとしておる者が、おるらしくてね」
 穏やかなままではあったが、長老の表情は曇った。少し離れて聞いているダガーの表情は、もっとわかりやすく険しかった。
震えから回復したらしいモモが、エルマーから会話を引き継ぐ。
「切り倒す?こんな大きな樹を?とても無理そうに思えますけど」
「容易ではないだろうね。だが、トルネリコがいかに立派であっても、樹であることは変えられぬ。切り倒そうとすればできるし、燃やそうと思えば燃やせる」
 モモは黙ってうなずいた。
「日が落ちるまでまだしばらくある。小屋で仮眠でもお取りくだされ」
 長老は、ダガーと少年に付き添われて、立ち去ろうとした。
「あの!」
 その背に、モモが声をかける。まるで切羽詰ったようなその声の出し方に、エルマーは目を見張った。
「まったく個人的な質問なんですけれど」
「何かな?」
「長老さまは、トクラナ、という言葉にお聞き覚えはございませんか」
「はて……。人の名前か何かかね?」
「いえ、それもわからないんです」
 トクラナ。今朝、エルマーにも問うていた単語だ。任務中だというのに個人的なことを、と憤るよりも先に、一体何を示す言葉なのか、ということがエルマーも気になった。
「そうか……。いや、申し訳ないが、聞いたことがないねえ」
「そうですか。ありがとうございます」
 さして落胆した様子も見せずに、モモは会釈した。自分が問われたときにも思ったが、この質問と空振りの回答はおそらく何度となく繰り返されてきたものなのだろう。
「……お嬢さん。トルネリコは何でも知っている」
 長老が、静かに言った。
「だが、何でも教えてくれるとは限らない」
「……はい」
 モモの返事に微笑んで、今度こそ長老はその場を去った。

 

 

※次回の更新は3/30頃の予定です。