カグの樹の脚

つばめ綺譚社の紺堂カヤの小説『カグの樹の脚』を連載形式で順次公開してゆきます。

連載第十三回 樹上

 夕暮れ近くになってようやく静かになった小屋の中で、エルマーは大きく息をついた。

 夜明けとほぼ同時に眠りについたエルマーが次に目覚めたとき、いったいどうしたものだか、数名の若い娘が小屋の入り口で待ち構えており、昼食だと称してたくさんのパンや菓子を振舞われた。目を白黒させるエルマーに、娘たちは喧しくおしゃべりをし続け、今朝、そこの通りで妹さんに会ったわ、などと話した。妹、に一瞬ぴんと来なかったのをごまかすように、愚妹がお世話に、などとごにょごにょ言ったら、愚妹ですって古風ね真面目ね、ときゃあきゃあ盛り上がってしまったので閉口した。何がそんなに面白かったのか、エルマーにはさっぱりわからない。

 入れ替わり立ち代わりやってきていた娘たちがようやく去ってみると、すでに一日のほとんどが終わっていた。モモが帰ってくる気配はなく、エルマーはチッと舌打ちをした。娘たちに取り囲まれているところに姿を現さなかったのは幸いだと言えたが、あまり長く外をうろつくのは得策と思えなかった。この地方の現状は、当初考えていたよりもはるかに深刻であるようなのだ。エルマーとて、ただおろおろと娘たちの会話に付き合っていたわけではない。

「トルネリコを切り倒す、というのを本当にやるかはわからんが……」

 そういう噂が立つのも仕方がないと思えるような、荒っぽい衝突は日に日に増えているという。モモが議会派の者たちに接触しているとして、もしトルネリコの夜間警備に雇われていると知られれば、おそらくただでは帰してもらえないだろう。よそ者だ、という主張がどれほど役に立つものか。

 モモならばそんな局面もソツなく乗り切ってしまうのだろうか、と考えて、エルマーはきつく眉を寄せた。僻んでいるような、そんな考えを持った自分に、腹が立った。

誇りとコンプレックスは表裏一体なのだとわかった。ちょうどいいから表裏一体なまま、まとめて捨ててしまいたかった。モモにあそこまで自分のことを話す気になれたというのは、エルマー自身も不思議で、話せたからには、もう捨てきってしまえたのではないかと、少しばかり期待もしていたのだが。

「そう簡単にはいかない、か」

 サンスーシ社を出て、フック社に入り、義足ジャンパーのモモと組んで。何か変われたように錯覚していたが、変わったのはエルマーではなく環境だ。本気で自分を変えたいと思うなら、いっそ、両脚を切り落とす覚悟でなければならないのかもしれない。

「バカか、俺は」

 独り言とは思えないほどの声量で、エルマーは吐き捨てた。いくら自分の胸中でのことでも、軽率に引き合いに出すべき事柄ではない。

 目の前で両親を殺され、なおかつその犯人はわからず、さらに自分の両脚も失い、異世界を跳びまわる生活をすることになる……。それがいったいどういうことなのか、想像することも難しい。それを、理解しろ、ということになれば、到底不可能であるようにしか思われない。それと同時に、モモが理解を求めるはずがないとも思う。それなのに理解しようとするのは、理解できなければ自分のおさまりが悪いのだ、というただそれだけのことのような気がしてならなかった。

 奇妙な罪悪感。人はときおり、自分が知らない体験の痕を持っている者に対して、それを抱くことがある。

 エルマーは、ジャンパーになった経緯を話していたときのモモの、微笑んだ横顔を思った。世間話をするように、なんでもないことのように、軽々と唇を動かしていた。無理にそう振舞っているようには見えなかったものの、不自然さは拭えなかった。特に、脚を無意識に撫でていたときの、あの冷淡さが気になった。

 ガシガシ、と大きく髪をかき混ぜる。いったい何について思案していたのか、よくわからなくなってしまった。

 ただひとつ、昨夜言えばよかった、とエルマーが思うことは。

「俺の事情をおとなしく聞いてる場合じゃないだろ」

 エルマーよりもよほど複雑な事情を抱えておいて。それもまた、罪悪感と同じくらい奇妙な苛立ちだとはわかっていたが。それでも、これだけは言ってやろうと心に決める。この任務が、終わったら。そう、終わったら、だ。とにかく今はこの仕事を片付けなければと、エルマーは頭を切り替えるべく、深呼吸のようなものをしてみた。まさにそのときに。

「なんだあれは!!」

 叫びにも似た大声がして、エルマーは小屋を飛び出した。

 広場のほぼ中央に、トルネリコを見上げて指をさしている男がいた。ダガーだ。大声を出したのはどうやら彼のようで、何事かと人々がざわざわ集まりだしていた。指で示された方を見上げると。

「なっ!?」

 人が、両手を縛られ吊り上げられた状態で、トルネリコの幹に張り付けられていた。エルマーが詰めていた小屋の、軽く2倍はあろうかという高さに、女、だろう、小柄な影が、ひとつ。

 小柄な、影。

 エルマーは目をこらした。こらすまでもなく、本当は一瞬にしてわかったのだけれど。

 

 トルネリコに張り付けられていたのは、モモだった。

 

「どういうことだ!」

 叫んで、エルマーは目の前に立っていたダガーに掴みかかった。

「それはこちらが知りたい!!警備していたのではないのか!?」

「チィッ」

 はっきりと音をたててエルマーが舌打ちする。誰もここには来ていない、と言い切れないところが情けなくはあるが、こんな、人ひとりを吊るすような真似をされればさすがに気がつく。いつの間に、どうやって。わからぬことばかりだが、その中でもエルマーの頭の中をもっとも大きく占めている疑問は。

「なんでお前がそこにいるんだ!!」

 エルマーは、モモに向かって怒鳴った。顎を上げ、遠くを見るようにしていたモモは、その声で初めて眼下の状況に気がついたようにハッとして、そして、あろうことかにっこりと笑った。

「あ、エルマー!」

 手を振ろうとでもしたのだろうか。動かそうとして動くはずのない手首が、ロープに引っ張られてぐん、としなった。

「いてて。いやー、ごめーん。ちょっと油断したら捕まっちゃってー」

「捕まっちゃって、じゃないだろ!」

 なんでそう、しれっと呑気な返事ができるのか。この場の緊張にいちばんの当事者がいちばんそぐわぬ態度でいるとは。少なからず脱力感を覚えたが、ここでそれに引きずられるわけにはいかない。どう見ても緊急事態だ。

 それで、捕まったというのはどういうことだ、とエルマーが再び口を開こうとしたとき。

「見ろ!トルネリコに娘が!!」

 再び叫び声がした。ダガーのものではなく、広場に集まって騒ぐ住民のものでもない。

 黒を基調とした服に身を包んだ男たちが、集団で広場へ入ってきた。こいつらが「議会派」というやつか、と誰に尋ねるでもなくエルマーは判断する。彼らがやってきた途端に、広場の空気は凍りつき、人々の表情は険悪なものになったのだ。

「トルネリコは生贄を求める、非人道的な存在だ!」

「そのはずだ、人ではないのだからな!」

「やはり廃さねばならぬ!」

「いきなり何を!!」

「トルネリコは決してそのような要求はしない!」

「ではこれは何だ!!」

 油をまいてあったところに、火が放たれた……、というような、一瞬の喧騒の拡大だった。これでは暴力沙汰になるのも時間の問題であろうと思われた。

 トルネリコの要求だ、いや違う、などとただ押し問答をする人々を見て、エルマーはふと不思議に思った。その真偽を確かめたいのなら、トルネリコ本人……いや、人間ではないから本人というのはおかしいのかもしれないが、ともかく、トルネリコに直接尋ねれば済むのではないのか。

 助言すべきか、とエルマーが口を開きかけたとき。

「無駄だ」

 エルマーの考え読んだように、ダガーが吐き捨てた。

「議会派の連中に、トルネリコの声は聞こえない。いや、本当は逆なのだ。トルネリコの声が聞こえない者たちが、議会派になったのだ」

 聞こえないものを、実感できないものを、信じ続けるのは難しい。それが可能になるのは、トルネリコが支配者や先導者と呼ばれるものでなく信仰対象となったときだろう。

「そういう、ことか……」

「そういうことだ。お前たちがトルネリコの声を聞くことができたのは幸運と言うほかない。……俺にももう、聞こえないんだ」

「え?」

 エルマーがダガーの方へガバリと体を向けると、彼は素早くエルマーのそばを離れた。

「皆!落ち着け!」

ダガーさん……」

 広場の中央へ進み出て大声を出したダガーは、人々の顔を見回すと、苦しそうな表情でしかしはっきりと言った。

「もう、よそう。彼らには通じない。ここでこれ以上騒ぎになれば、怪我人も出るだろう。あの娘もどうなるかわからない。醜く争い、血を流すことをトルネリコは望まないだろう」

 ざわめきが、すうっと沈静化していった。何か言いたげではあるが、それでも反論と呼べるほどの発言はできない、というような、苦々しげな沈黙であった。ダガーはこの沈黙の瞬間を逃さなかった。議会派の男たちにキッと顔を向ける。

「あの娘と、トルネリコに危害を加えないことを約束しろ。そうすれば、行政からトルネリコの仕組みを廃することを、我らは飲む」

 ざわめきは瞬時に、勢いを取り戻した。まさに隙を突かれた、というやつである。

「そんな!」

ダガーさん!勝手ですよ、長老に断わりもなく!!」

 再沸騰した人々を眺めながら、エルマーは名実ともに外野の立ち位置で、なるほどそういう茶番か、と仕組みをだいたい把握した。ちら、とトルネリコに吊るされたモモに視線を向けると、予想していたようにモモもまたエルマーを見ていて、目があったところで瞳をくるりと動かして首をがくん、とさせた。肩をすくめたかったものと見える。

「それで、よいのだ」

 しわがれた声がして、少年に付き添われた長老が広場にやってきた。水を打ったようにぴしゃりと、人々が静まる。ダガーのときとは違う沈黙だ。畏敬の念がそうさせたことは明らかだった。

「トルネリコの声が聞こえぬ者は、これからどんどん増えてくることだろう。そんな状態では、トルネリコの声を指針にしていくことは難しい。それは皆、理解できるじゃろう?」

 人々は素直に、うなずいた。

「人の政は、人が執り行うべき。その主張の正当性は、わしも承知していたよ。けれど、トルネリコをいとおしむ気持ちが強すぎたがゆえに、そして変化を恐れたがために、皆に言葉を尽くすことを怠った。……それが、こんな荒っぽいことを招いてしまったのだな」

 長老は、微笑んでいるようにすら見える穏やかさで、議会派の男たちに語りかけた。彼らはきまり悪そうに視線を泳がせる。長老は、それを糾弾することはなく、視線を上に……、トルネリコに向けた。

「聞こうとしても聞こえぬ、ということは、聞くべきものは他にある、ということだろう、トルネリコよ」

 人々が一斉に、トルネリコに注目した。

 それは自然、モモに視線が集まることにもなった。エルマーは、息を飲んだ。

はたしてモモは、人々が半ば期待していたとおりに口を開いた。20歳そこそこの娘には見えぬ、母なるおおらかな微笑みで。

 初めから彼女こそが、トルネリコの代弁者であったかのように。

 

※次回更新は7/10予定です

連載第十二回 身代わり

 モモは目が覚めると、起き上がるのを試みる前に体の自由が奪われていることに気が付いて、大きくため息をついた。腹がひどく傷む。みぞおちに拳を一発、という実にシンプルな方法で気絶させられたものらしい。手首を麻紐のようなもので固く結ばれている。背中に回された状態で縛られているため、手首よりもむしろ肩の痛みの方が勝った。どこかに閉じ込められているらしいが、窓もなければ光源になるようなものもなく、どこにいるのかはおろか、今が一体どのくらいの時刻になるのかすらわからない。

 迂闊だった。完全に、モモの油断が原因だ。軽く舌打ちして、エルマーの癖がうつったかも、と思ったら少し笑えた。と、その瞬間に暗闇が一筋だけ、光に切り取られた。

「この状況で笑えるとはな。よっぽど鈍感なのか、それとも救えぬほどの阿呆か、どちらだ?」

 扉が開かれて、そこからぬっと黒い影が現れた。顔を確認することはできないが、声からロベンだと判断した。

「それ、どっちの方がマシなのかよくわかんないんだけど?」

 ふん、と鼻で笑って、モモは黒い影でしかないロベンを睨みあげた。影でしか見えない、というのは嫌だな、と思う。腹の奥がぞわぞわする感じだ。思い出す必要のないことを思いこさせるような。

「そんなことより、ここどこ?あたし、なんで縛られてるわけ?」

「以外に冷静だな、お前。もう少し喚きたてるかと思ったんだが」

「質問に答えなよ」

 冷静だから、喚きたてないから、モモが怒っていないとでも思っているのだろうか、この男は。バカにされている、というのはとうにわかっていたことだとはいえ、ここまで侮られるいわれはない。

「口のきき方に気をつけろ、このツギハギが。お前自身が言ったのだからな、ポタラの役に立てるなら何の損もない、と」

「それが縛られてることの説明になってると本気で思ってる?大体、何の損もない、と言えるのは情報がもらえたら、の話でしょ?そっちの都合がいいように端折ってんじゃないっての」

「情報、ね……」

 今度はロベンが鼻で笑う。さすがにカチンときて、モモはロベンにも聞こえるように大きく舌打ちした。

「行儀の悪い娘だな、やはり。情報なら約束通り、くれてやるさ。教える、というよりは見せる……、いや、体験させる、と言った方がいいか」

「は?どういう意味……」

「立て。移動だ」

 モモの言葉をさえぎって、ロベンはモモの肩と腕をつかんで乱暴に立たせた。

「ちょっとぉ、痛いなあ!」

 至極まっとうな抗議の声は至極当然のように黙殺され、モモは幌のかかった馬車に乗せられた。馬車にはすでに数名の男が乗っていて、モモを値踏みするように見てから、素早く視線を逸らした。ロベンだけは馬車に乗らず、外から馬車を揺さぶるように幌をつかんで中を覗き込むと、この男たちをギョロリとねめつけた。口調だけは不自然なほど丁寧だった。

「約束通り、代わりの娘をお連れしました。この地方どころか、ホウル国の者でもありません。不都合はないだろうと思いますが」

 全員が黒っぽい服装の男たちはサッと目配せを交わしてうなずく。

「よかろう。庁舎で書類に捺印したら、任務は完了だ」

ポタラは」

「お前の女は庁舎の応接室にいる。拘束も一切してはいない、連れて行け」

 それを聞いたロベンは男たちに一礼すると、モモには一言もなくその場を去った。

「……えーっと……」

 後に残されたモモは、とりあえず、馬車の中の男たちの顔をぐるっと見回した。目を合わせようとする者はほとんどいない。

「要するに、あたしはポタラの身代わり、ってことだ?いや、要するにって言っても全然わかってないんだけどさ」

 モモが少しもおびえた様子を見せず、むしろ気軽な口調でこんなことを言うものだから、男たちは少なからず拍子抜けしたようだった。

「まあ、そういうことだな。……出せ」

 代表格らしき男の合図で、馬車が走り出した。ゴトゴトという振動がモモの体を、ブーツに包まれた義足を揺らす。

「うーん、じゃあ、まあ、仕方ない、のか?いや、仕方なくはないか……。えっと、あの、身代わり、はわかったんだけど、あたしこれからどうなるんでしょうね?」

「それを訊いて、どうするんだ」

「どうもしませんけど。捕まって縛られちゃってるんだからどうもできないし……。ただまあ、自分の行く末くらい知っておきたいかなあ、って」

 モモが引きつった笑みを浮かべると、男たちの表情は多少和らいだ。

「なるほど。そう心配することはない。ただ少し、トルネリコの枝から吊るすだけだよ」

「……はい?吊るす?」

 演技でもなんでもなく、モモはきょとんとした。意味がわからなさすぎる。

「えーっと、できればもう少しわかりやすく説明していただけますでしょうかね……。皆さまはいわゆる、議会派、というやつなんですよね?」

「ほう、そのあたりの事情を知っているとなれば説明はそう難しくない。そのとおりだ。我らは、あの前時代的なトルネリコを廃すために動いている」

「ああ、やっぱりそうですか。トルネリコを切り倒そうとしている、なんて噂を聞きましたけども?」

「それは噂にすぎんよ。まあ、可能であるならそれが一番手っ取り早いがね。だが、あれだけの巨大樹を切り倒すというのは容易ではないからな」

 何がおかしいものか、ぱらぱらと笑いが起こる。モモは今度はしっかり意識をした演技できょとんとした表情を維持した。

「えーっと、切り倒さず、あたしを吊るすことで、その、トルネリコを廃すことはできる、と?一体どういうわけで?」

「〝トルネリコは生贄に若い娘を捧げることを求める非人道的な支配者である〟と知らしめるのさ。これで世論は、一気に、圧倒的に、議会派に傾く」

 昂然と胸を逸らして放たれたセリフに、周囲から拍手が巻き起こった。モモは湧き起ってくる乾いた笑いを抑えられずにぼそりと呟いた。

「……非道を知らしめる、っつーか非道であるとでっち上げる、ってことだ……?」

 幸いにして聞かれていなかったようで、勢いづいた彼らは口ぐちに、得意げに、計画と思惑を語りだした。

「誰がどう考えても、樹木の声に従って人間の政治を行うなどという体制はおかしい。政治というのは、人のために、人が手を尽くして行うべきものだ。より多くの人の意見を反映させ、自分たちの手で動かしていかなければならないものだ。だが、その理屈を受け入れない者も、残念ながら存在するんだよ」

「正論を説いても動かない者を動かすには、彼らの信ずる対象を貶めてしまうのが一番効果的なんだ」

「トルネリコを物理的に傷つけることはせずに、議会派の実権を揺るがぬものとできる。これこそ、人道的といっていい方法なんだ」

 モモは、言葉を返すことができなかった。うなずくことも、できなかった。どちらが正しいと、モモが評価できる問題ではないのだ。

 トルネリコの声を、言葉を、思い出した。「彼らはもうひとりで立てる」「人同士で支えあわねば」そう言っていた。トルネリコも、いや、トルネリコこそが、わかっている。己の出番はもう終わったのだ、と。

 そう、トルネリコはわかっている。

「ああ……、そうか……」

 モモは思わず、口に出していた。この発言を議会派の男たちは、自分らへの理解と見たらしい。そうか、わかってくれるか、などと言って喜色をあらわにした。モモはゆるく首を横に振ってそれを否定すると、きょとんとした顔の芝居をやめて静かに口を開いた。

「ひとつ、確認させていただきたいのですが。あたしは、ただ吊るされるだけなんですよね?本当に生贄として死ななければならないなんてことは、ありませんよね?」

「もちろんだ、命の保障はする」

 代表格の男が、力強く即答したのを聞いて、モモははあ、と息をつくと、全員の顔を順番に眺めた。ここで初めて、男たちの総数を把握した。彼らは全員で5人だった。

「わかりました。あたしは、あなた方がやろうとしていることに賛同するわけじゃありません。でも、積極的に邪魔もしません。少なくとも、トルネリコに吊るされるまでは逃げたり、暴れたりはしないことをお約束します」

「感謝する」

 モモの言葉に偽りはないと判断してくれたらしい彼らは、モモの手首を縛っていた麻紐を解いてくれた。

 それからほどなくして、馬車が動きを止めた。幌をくぐって外へ出ると、もうずいぶんと日が落ちかけていて、橙色の空気がモモを包んだ。そんなに時間がたっているとは思わず、ああエルマー怒ってそうだなあ、なんて苦い気持ちになる。

 周囲をよく見ると、頭上、それもずいぶん高いところにトルネリコの立ち姿が見えた。どうやら昨夜モモとエルマーが警備していた、広場のようなところの裏側に回ってきているようだった。ここからトルネリコの根元にたどり着くには、相当に急な傾斜を登って行かなければならない。

「トルネリコ派の人々は正面の警備はしっかり固めているが、裏側であるこちらはまったくなのだ」

「でも、それもそのはず、という感じがしますが。この傾斜を登って行くのはかなり難しいのでは?」

「登って行くのであれば、な」

 妙な含みを持たせたセリフを聞いて、モモが怪訝な表情をすると、男たちはモモに傾斜を少しだけ登らせて、そこに立っているように指示をした。そして、モモの両手首と、腰にしっかりとロープを縛り付ける。

「え?ここで縛るの?」

「そうだ。このロープは、いくつもの滑車に通してある。合図で順番にロープを引っ張っていくと、君の体が浮き上がって、トルネリコの正面に吊るされるようになっているのだ」

「はー、そりゃまた大がかりなことで……。よく相手側にバレずに準備しましたねえ?……ああ、協力者がいたのか」

 モモは素直に感心しただけのつもりだったのだが、議会派の皆さまは皮肉を言われたとでも思ったのか、誰もが少しバツが悪そうにした。

「体が上がりきって、正面までたどり着けば、背中がしっかりトルネリコの幹にくっつくようになっている。ただ、上がっていく途中はかなり痛い思いをさせることになるだろう」

「ああ、わかりました」

「……あっさりしているな、君は」

 申し訳なさそうに説明していた男が、平然としているモモをしげしげと眺めた。モモは、ちょっと笑う。

「実際に脚を斬り落とすのに比べたら、たいした痛みじゃないだろうから」

 男は一層、怪訝な顔をした。モモはそれ以上のことは言わず、ただ微笑んだ。

「どうぞ、いつでも始めてください」

 代表格の男がうなずき、片手をあげて合図を送る。たわんでいたロープが徐々に張りつめ、ぐ、と力がこもったかと思うと、モモの体がゆっくりと持ち上げられ、ブーツが地面を離れた。そのまま上昇しつつ、ゆるやかな弧を描いて回転し、モモの体はトルネリコを半周する形で正面へと近づいていった。縛られた両手首と腰は、引っ張られていることと己の体重をそれだけで支えていることから、ぐりぐりと痛んだが、我慢できないほどではなかった。……モモの痛覚では。

 痛みよりも、跳ぶことなく自分の体が宙に浮いていることの方が、ひどく違和感だった。

 視界の端に、広場の隅に建てられた小屋が見えた。昨夜、モモとエルマーが警備に詰めていた小屋だ。エルマーはたぶん今も、あの中にいるはずだった。

「気が付くかな……」

 まさかこんな方法でトルネリコの前に現れる者がいようとは思っていないはずだし、さらには、それがモモであるなどとはもちろん、考えていないだろう。考えているとしたら、こんな時間になっても帰ってこないとはいったいどういうことか、とそれだろう。

 空はだいぶ赤みをなくして、闇を迎え入れようとしていた。

 モモはトルネリコの太い太い幹に背中を預けた。正面にして中央に、まるで抱きとめられるようだった。吊り下げられる、というよりは磔になっているような恰好だ。キリストみたい、と思ったけれど、きっと誰にも通じないんだろうな、とも思った。エルマーですら、モモが生まれた世界の宗教のことまで知識を持っているとは思えない。

「まあ、あたしにも知識があるわけじゃないんだけど」

 ぼそりと呟いて、ちょっと笑った。クリスマスにケーキは食べたけど、なんて、なぜ今こんなことを思い出しているのだろう。

 なんだか、胸が騒いだ。

 昨日初めてトルネリコの前に立ったときも、今朝の夢の中でも、こんなに落ち着かない気分にはならなかった。むしろ安心感すら覚えたくらいだというのに。

 なんだろう。何が始まるというのだろう。……いや、終わるのか。寒気さえ這い上がってきた気がして、モモは身震いした。

 吊り下げられて自然と下を向きそうになる目を、しかしモモは持ち上げた。悠然と広がる、トルネリコの枝。暮れゆく空を優しくかき混ぜるように揺れて、さらさらと葉が囁く。

 すわっとした浮遊感が、モモに訪れた。

連載第十一回 声

 血が繋がってなくたって、嘘をつかれていたって、生きてるならそれでいいじゃない。と、思わなかったとは言えない。モモは瞼がつくった闇の中で考えた。ただ、そんなことよりも。そんなふうに恨めしく、妬ましく思うよりも、ただ……、淋しい、と思った。
 あまりあれこれ考えると眠れなくなる、と、モモは胎児のように体を丸めて膝を胸に引き寄せた。引き寄せた膝は、硬く冷たかった。モモの脚は、もうない。とっくにわかっていたことで、何度も確認したことで、今更それについて特別憂いを感じるべきではないのだが、今夜ばかりは、義足の感触がひどくモモを打ちのめした。
 仕方がない、ことだ。終わった、ことだ。
 脚のことも、両親のことも。
 モモはそのまま、うとうとと眠りに入った。浅い眠りだった。夢の中で、声を聞いた。
 〝ちゃんと見て〟
 〝そしてちゃんと聞くの〟
 それは昼間、トルネリコの前で聞いたのと同じ声だった。ではこれは夢を介してトルネリコが話しかけているのか、とモモは自分が眠っていることを自覚した上で考えた。
 〝人は移ろうもの。変わってゆくもの。それは必然。止められないし、止めてはいけない〟
「今まさに、ここが変わろうとしているんだね?」
 〝そう。わたしの言葉は、もう必要でなくなる〟
「必要でなくなる?」
 〝わたしは長く、人にいかに生きるべきかを教えてきた。人々はそれをよく聞いた。そして賢くなり、数を増やした〟
「あなたが、ここの人々を育ててきたんだ」
 〝そうとも言える。けれど、その段階はとうに終わっていたのだ〟
 〝わたしが伝えていたのは「教え」だった。それを受けて人々は成長した。けれど、成長しきってからも人々はわたしの言葉を求め、「教え」は指示となり、わたしは「教えを授ける存在」から「支配する存在」になってしまった〟
「それでも、人々を正しく導いてきたんでしょ?」
 〝正しいことはすなわち良いことだと、そう定義することができた頃は。けれどその時期はもう終わった〟
「なぜ?」
 〝人が増えたからだ。人が増えれば思いが増える。考えが増える。道も、未来も〟
「もう、あなたの手には余る、と?」
 〝彼らはもう、ひとりで立てる。支えが必要なときは、人同士で支え合わねばならぬのだ〟
 〝そしてそれは、あなたも〟
「あたし?」
 〝そう。ひとりで、立てる〟
 〝でも、ひとりで、どうやって立っている?それを、もっと……〟
 急速に声が遠のいて、モモは慌てた。もっと訊きたいことがある。もっと、他のことが。
 〝ちゃんと見て〟
「何を?何を見るの?」
 〝ちゃんと聞いて……〟
「だから何を!?ねえ、待って!!」
「おい!!」
 力強い声に呼ばれて、モモは目覚めた。
「……え?」
小屋の中で横たわっていたはずのモモは、気がついたら巨大樹トルネリコの目の前に立っていた。すぐ脇でエルマーがモモの肩を揺さぶるようにしながら顔を覗き込む。
このひと誰だろう、と一瞬、思って、軽くめまいがした。
「あたしは……、モモ……」
「ああ、知ってるよ!どうしたんだ!」
目の前の男が、明らかに焦っていた。周囲が慌てていると当人は意外と冷静になれるものだ。なんでかはわからないまでも立った状態で眠りから覚めたのだと、はっきり自覚して笑った。
「あー、ごめん。おはよ。……で、どうしてあたしここに立ってるんだろう?」
「それは俺が訊きたい!お前、ふらふら立ち上がったと思ったら、目を閉じたままここまで歩いて行ってしまったんだぞ。俺が声をかけても知らんぷりでな」
「マジか……」
「お前、大丈夫か?夢遊病の気でもあるのか?」
「いや……」
 まだ、半ばぼんやりした状態でモモは返事をして、夢の中で聞いた言葉たちを反芻した。
「夢……?いや、あれは単なる夢じゃなかったんだ」
「……?何の話だ」
「あのさ、エルマー」
きつく眉をしかめた、もう御馴染みになりつつあるエルマーの渋面に、モモは正面から向き合った。
「な、何だよ?」
「あたしの妄想だと思って欲しくないんだけど」
 そう前置きして、モモは夢の中で聞いたトルネリコの言葉の概ねのところを伝えた。モモ個人に向けていたらしい部分は除いて。エルマーは渋面のまま少し考えていたが、それはモモの話に猜疑心を持ってのことではないようだった。
「この樹の声、というやつは俺も体験しているからな、妄想だとは思わんが……、どう解釈したもんだか……。予言、と捉えるにしても内容がいささか具体性に欠ける」
「予言……、というよりは、覚悟のように感じたけど」
「覚悟?……つまり切り倒されるであろう未来を見据えた上で、それをよしとする、ということか」
 切り倒される、という言葉にドキリとして、モモは息を飲んだ。
「そうであるなら、俺たちはこの夜間警備をできるだけ早く引き上げなければならないな」
「え?なぜ?」
「いくら情報を手に入れるために引き受けた警備だとはいえ、トルネリコを切りにやってきた者は追い払わねばならん。だが、この樹自身が切られることをよしとしているならば、俺たちが手を出すべきではないだろう」
「それは、そうだけど……」
 エルマーの意見は正しい。モモたちの本来の仕事は警備ではなく、この地方の統治状況の調査なのだ。統治状況を変えるような手出しをしてはならない。
「理解はできるが納得はできない、という様子だが」
「あー、うん、まさしくそんな感じ」
 はは、と笑ってはみたものの、それは乾いたものになった。思考をクリアにするために深呼吸をして、そこでモモは空が白々明けてきていることに気がついた。
「えっ、あたしこんなに寝てたの!?ちょっとー、適当なところで交代するって言ったじゃんかー!」
「ああ、適当なタイミングを逃してな」
「ええー!?」
 寝る前に話した内容が原因で変な遠慮をしているんじゃなかろうか、とモモが疑る視線を投げると、エルマーは素早く顔を背けた。
「と、とにかく、引き上げるにしても昨日引き受けたばかりのものを今日すぐに、としては不審がられるだろうから、もう一晩はここにいなければならんだろうが……」
「それはそうだね」
 しょうがない誤魔化されてやるか、とモモはごく普通に返事をした。
「覚悟のような気がする、と言ったあたしがこう言ってはいけないかもしれないけど、切り倒されることを回避できるなら、回避させた方がいいような気もするんだ。……もちろん、あたしたちがそれに働きかけることはできないけど」
「まだ一方向からしか事態を見れていないしな。議会派とやらの方にも、なんとか調査をしに行かねばならん」
「夜が明けきったら、あたしが行く」
「俺が行くという話だったろう」
「それはきちんと交代で警備ができてたらの話でしょーがよ。夜中一睡もしてない人を昼間も働かせるわけにいかないでしょ」
 ふん、とモモは鼻を鳴らす。エルマーは明らかにムッとした様子だったが、ここでモモが叱られるいわれはない。しぶしぶうなずいたのを確認して、モモは思わず笑った。
「いい子でお留守番しててね、兄さん」
「一言余分だよ、バカ」
 頭をはたかれそうになったのを、ひょい、とよけて、モモは巨大樹を見上げた。
トルネリコというこの樹の偉大さに、できるかぎりの敬意を表したかった。
朝食を持ってきてくれたダガーに昨晩の報告をし、エルマーが小屋の中できちんと寝る体勢になったのを確認してから、モモは出かけた。正面突破しようと思っているわけではないが、とりあえず、昨日利用した図書館の向かい側、つまり庁舎を目指す。
 道すがら、昨日モモたちがダガーに問い詰められているときに居合わせた、恰幅のいい女性にばったり出会った。名前を、セフティというらしい彼女は、モモが挨拶をすると親しげな笑顔で手招きをした。
「よかったわね、仕事もらえて」
「はい、お世話になりました、助かりました」
「そんな硬い挨拶いいのよぉ。それよりさあ、あんたのお兄さん、なかなかカッコいいじゃない?いや、あたしはもう亭主も子供もいるんだけどさあ、ここらの若い娘は皆、のぼせあがっちゃってるのよ」
「なによう、セフティさんだって喜んでたじゃないのぉ」
 いつの間にか、何人もの女がモモの周りに集まってきた。その好奇心丸出しの様子に、モモは思わず少し笑った。
「ねえねえ、お兄さん、お付き合いしてる人とかいるの?婚約者とかさあ」
「婚約者?いない、いない」
 ほとんど素でけらけら笑って、モモは手をぱたぱた振った。本人に確認などもちろんしていないが、自信を持ってそう言えた。右の義足を賭けてもいい。
「そうなの!?あんなにカッコいいのに!自慢のお兄さんなんじゃない?」
「うーん、そうですねぇ。でもあたしは、もうちょっと爽やかで、愛想よくなってくれたらと思うんですけど」
 言いながらモモは、苦しそうなほど眉をしかめたあの渋面を思い浮かべる。
「愛想いい男なんてね、むしろ要注意なのよ!ぶっきらぼうなくらいがちょうどいいって!」
「そんなもんですかね?」
 和気藹々と女同士の会話を展開しながら、モモはこれをなんとか利用させていただこう、と頭を回転させた。
「そうそう、兄さんは昨夜あたしの分も頑張ってくれちゃったので、今小屋で寝てますよ。午後には起きてくるかもしれませんけど」
 バラ色の頬をした若い娘たちの方を意識してそう言うと、控えめながらもきゃあっ、と歓声めいたものがさざめいた。昼近くに小屋へ帰れば面白いものが見られるかもしれない、と忍び笑いを漏らしつつ、モモはセフティに問いかけた。
「それにしても、トルネリコは立派ですね。どのくらいの樹齢になるんですか?」
「さて、どのくらいなんだろうねえ。誰も正確なことはわからないんじゃないかねえ、長老さまならご存知かもしれないが」
「声が降りてくる……、という言い方が不適切なら申し訳ないですが、あれは本当に驚きました。なんと表現していいのかわかんないですけど、とにかく、素晴らしかった……」
 こればかりは取り繕った物言いではいけないだろうと、感じたとおりを言葉にする。おかげで丁寧な物言いが不恰好に崩れたが、セフティは言葉づかいよりも、モモのその心根に歓心を寄せてくれたようだった。
「ここの者らはね、その声に導かれて、守られて生きてきたんだよ」
 目元をふわりと柔らかくして、丁寧に言ったそのセリフを皮切りに、セフティはトルネリコを取り巻く事情を教えてくれた。
 曰く。この地方では、田畑に関することから法律、相続に関することまで、とにかく決まり事というものはすべて、トルネリコに伺いを立てる方針で平和を保ってきた。それがいつ始まったものなのかは、よくわからない。この方針に亀裂が入り始めたのは、この地方が「ホウル国の一部である」という枠組みがはっきりとしてからだ。常識的に考えて、地方の代表は樹木であると申告することはできない。そのため、形ばかりの議会を置き、議員を選出した。この議会で地方を運営している、ということにしたのである。これがすでに50年以上前のことだという。しかし、形ばかりであったはずの議会は次第に実権を持つようになり、トルネリコに伺いを立てることなく行政を行うことが多くなった。それに伴って、トルネリコにも変化があった。昔はトルネリコの前に立てば誰もが声を聞くことができたが、次第に、聞こえない者が出てきたのである。生まれた時から一度も聞いたことのない者もいれば、以前は聞こえたのにある日突然聞こえなくなる者もあり、その原因はわからなかった。
 そういうあらゆる要因から、現在、議会の実権をより強固なものとしてトルネリコを地方の政治から廃そうとする議会派と、昔からの方針に立ち返って議会の実権を無効化させたいトルネリコ派が対立を深めているらしい。
「なるほどねー」
 セフティにもらった林檎を齧りつつ呟いて、モモはぶらぶらと歩いた。昼をめがけて、エルマーの寝ている小屋を突撃するわ、と笑う女たちと別れ、モモは予定通り庁舎の方面へ進んでいた。
 だいたいの仕組みも事情もわかった。モモたちにとってここから重要なのは調査結果として「対立している現状」を報告するか「対立の末どうなったか」を報告するか、ということである。一度、エルマーと相談をしなければなるまい。
 モモは林檎を芯だけになるまで綺麗に食べて、道端の植え込みに放り投げた。
「行儀の悪い娘だなァ……、所詮〝ツギハギ〟ってことか」
 いかつい肩が、ぬっと現れて、モモの上に影を作った。逆光なのに両目が妙にギラリと光る。
「ロベン……!あれ?ひとりなの?ポタラは?」
「いちいち一対で考えるのをやめろ。お前の方こそ相方はどうしたんだ、あのイエローストーンの坊ちゃんは?さては昨夜あいつに手ェ出されて気まずくなった、とか?」
「んなわけあるかい。名門を売りにしてるにしちゃあ発言が下品だなあ」
 そんなやつに行儀が悪いだなどと言われたくはないわ、とモモはロベンに舌を出した。ポタラが一緒にいるならともかく、ロベン単体と中身のない会話などしたくはない。さっさとその場を離れよう、と思ったモモだが、ふと思いついた。
「ねえ、ロベン。君らの今回の任務ってさ、もしかして依頼人が議会の人間だったりする?」
「その質問に、俺がきちんと答えてやると思うのか?」
「思わない」
 モモは即答して、そして苦笑した。ダメでもともと、な質問だったが予想以上に無駄になるのが早かった。
「ま、お互い、それぞれの仕事を頑張りましょ、ってことで」
 ひらひらと手を振って、モモはロベンの巨体を回り込むようにして先へ進んだ。
「待て、ツギハギ。答えてやるよ」
「……は?」
 呼び止められるとは思わず、しかもそのセリフが信じがたいものだったので、モモは反射的に固まった。
「は?じゃねえよ、人にものを訊いておいてその態度か?答えてやる、って言ってるんだ。それだけじゃない。お前たちの任務の役に立ちそうな情報を流してやってもいい」
「……どういう心境の変化……?いや、親切心が起きたわけじゃないよね、うん。取引内容は何?」
 鋭い眼光のロベンを油断なく眺める。高慢な態度はいつものことだったが、なんとなくいつもより余裕がないように見えるのが気になった。
「ふん、フック社のやつはこういう件では話が早いな。取引内容は簡単だ。情報をやる代わりに、お前にポタラを助けてほしい」
ポタラを?どうかしたの?」
「昨夜から、一向に部屋を出ようとしない。理由を聞いても、女でないとわからない、の一点張りだ。正直、お手上げだ」
「へええ……。サンスーシ社の純血エリート様でもお手上げだ、と認めることがあるんだ」
 モモがにやにやすると、ロベンは心底嫌そうに目を眇めた。もう充分に目線は上にあるというのに、顎をくい、と持ち上げてさらに高みからモモを見下ろす。
「取引に乗るのか?乗らないのか?」
「乗りましょ。情報もらえて、ポタラの役にも立てるなら、あたしとしては何の損もないし」
「……そうか。その言葉、しっかり聞いたぞ」
「ん?」
 ロベンの声が急に低くなったかと思うと、その巨体からは想像できぬほどの素早さでモモとの距離を詰められた。マズい、と思った瞬間に、全身を衝撃が走り、モモの目の前は真っ暗になった。

 

 

※次回更新は5/10頃の予定です。

連載第十回 出生

 兄妹、という設定付をしてしまった以上、仕方のないことだとは思うが、この狭い小屋に同年代の女性と二人で過ごす、というのは気まずいものがある。と、いうエルマーの心配を知ってか知らずか、モモは何のこだわりもなくあっさり横になり、仮眠を取り始めた。小屋には寝台も何もなかったため、床に転がることになるが、それにも躊躇った様子はない。危機感がないのか猜疑心がないのか、はたまた相方を男と思っていないのか。そんなことを考えるのもバカバカしくなって、エルマーもまた横になって瞼を閉じた。

 何かが香ばしく焼けている匂いで目覚めてみると、肩も背中もバキバキになっていてひどく痛んだ。

「ああ、おはよう兄さん」

 木箱のようなものを組み合わせた上で、パイのようなものが湯気をたてていた。匂いのもとはこれか、と思う反面、いつの間に、と不思議になる。

「さっき、ダガーさんが持ってきてくれたんだ」

「……そのときに起こせよ……」

「いや、起きないと思わなくて」

 仮眠、という行為そのものに慣れていないことが見透かされている気がして、エルマーはまた軽く舌打ちをした。それに苦笑したようだが、モモは特に何も言わなかった。

 椅子として使うのも木箱のようなもののようだ。エルマーはひとつを引き寄せて、パイの前に座った。モモが自分の分を一切れ取って、お好きにどうぞ、とばかりに押して寄越す。

「もうすぐ日が暮れるけど、どうする?順番に眠りながら見張る?」

「ああ……、でもそれなら同時に仮眠したのは失敗だったな……、というか、本当にやるのか、夜間警備」

 後半は声をひそめて、エルマーはパイに喰いついた。何の肉なのかはよくわからないが、ミートパイのようだ。肉とともに煮詰めてある野菜はタマネギだろう。

「ひとまず今夜くらいはちゃんとやらなきゃじゃない?ホントに襲撃があったら、それはそれで収穫だし」

「収穫ってお前な……」

 こともなげに言うが、一応の訓練は受けているとはいえ、ふたりとも丸腰同然だ。

「力づくでねじ伏せようという短絡的なのが相手なら、もうちょっと違った対応になってるんじゃないかと思うんだよねー。たぶん、あの長老って人も、本当に襲撃してくるとは思ってないんじゃないかなあ。ただ、完全にない、とは言い切れないから見張り置く、って程度で」

「だからこそ俺たちみたいな得体の知れない旅の人間にでも任せられる、ということか。だが、だとしたらその議会派、ってかなり陰険だな。襲撃はないだろう、しかしあるかもしれない、っていう、つまりはどう出てくるのかわからない状況というのが一番精神的に消耗する。それを狙ってる、ということだろ」

「でしょうねー。……意見、一致したね」

 意味ありげにニヤリとするモモの顔を、エルマーは反射的に睨みつけてしまった。どうしてこう反応が軽いのだろう、この娘は。意図的な軽さかもしれないと思えるからこそ、エルマーには妙に腹立たしかった。

「今までに、こういう事案は経験ある?」

 睨まれたことなど少しも気にとめていないように、モモはパイを頬張りながら話を続けた。

「あるわけないだろう、さっきも言ったが、調査任務はお前同様初めてだ」

「いや、そうじゃなくてさ、こういう、不思議な樹ってやつは、他の球にもあるもんかな」

「まあ……、あるんじゃないか」

 エルマーはジャンパーになるまでに叩き込まれた膨大な情報を脳内でさらった。

「どういう基準でどの程度まで不思議、とすべきかは俺に定義はできないが……、樹木を信仰の対象としている人々はあらゆる球に存在している。どの球、と例を挙げるまでもないほど無数で、つまり珍しさはほとんどないわけだな。樹木の形象に何を見ているかには違いはあるが……生命、不死、知恵、多いのはこのあたりか。繰り返し再生する能力がとりわけ大きな要因だろうな。信仰の対象とはいかずとも、祭事の歌やおとぎ話の主軸になっている例も含めれば、樹木にまつわる伝承のない球を探す方が難しいくらいなんじゃないのか。まあ、トルネリコのように、ここまではっきりした〝統治〟と認識されている例は俺も知らないし、おそらく極めて珍しいだろうがな」

「ははあ……、よくご存じで……。そういや神社にしめ縄みたいなの巻いた大きな樹、あったな……」

「ジンジャ?お前、そういや出身どこなんだ」

「ん、108球のー、えーとエリアでいうと数いくつだっけ、日本、って言ってわかる?」

「108球!」

 最大級の規模の球のひとつだ。エルマーはまだ跳んだことがない。あの球を制覇できたら、あとはもうどこへ跳んでも困らない、とさえ言われる。

「108球出身のジャンパーこそ他に知らないぞ……、というか、ああ、お前も不思議な樹に関係が深いじゃないか」

「え?」

「その脚。義足なんだろう。原材料であるカグの樹も、充分不思議な樹だ」

「ああ……、なるほど」

 感心した、というにはだいぶ声のトーンを落として、モモが頷いた。

「複数の球に生息する樹、という意味では奇異なものではないのに、どこの球においても特殊な種の樹として扱われ、しかも生態が明らかになっていないのも同様。ハブのサンスーシ社研究室においても、生息球の完全な把握はできていない状態だ。なにせ、発見してから再調査に向かうと樹がなくなっている、という例も多いそうだしな……木材を使用した義足で世界間を跳べるようになるのだから、樹自体が跳んでいるのではないかという説もあるが、定かではない……、とにかく他に類を見ない樹だ」

 知識としては頭に入っていたカグの樹の特性をさらうと、まさしく不思議な樹の代表であるように思われた。

「あの長老も、お前がトルネリコに気に入られたようだ、と言ってたし、お前自身も何か感じるものがあったんだろう?何かしら、共鳴したんじゃないのか、その木製の脚と」

「どうかな?関係ないんじゃない?」

モモが首を傾げて、笑った。笑ってはいたが、どこか失笑めいた、温度のない笑いだった。また義足への批判をしようとしているのだと取られただろうか、とエルマーが口を開きかけると、その前に彼女の方から話題を変えた。

「トルネリコの詳細はまあここにいれば知ることは難しくないと思うけど、問題は、議会派とやらの方よね。明日の昼間はそっちを調べに行かなきゃだよね。できればそちら、エル……兄さんに任せたいけど」

「なんで」

「お堅い方面の調査、得意そうじゃん」

 ぺろっとそんなことを言うモモの顔に先ほどの感動の余韻は欠片も見えず、なんとなく騙されたような気になる。

「……それは、俺がサンスーシ社にいたからか」

「いや別に?あたしの調査姿勢より堅実だから、合いそうだなって思っただけ」

 肩をすくめて、モモはパイをもう一切れ頬張った。

 それきりどちらからも口を開かないまま食事をして、日が落ちかけた頃にモモが古そうなランプに火を入れた。それもダガーが持ってきてくれたもののようだ。小屋の戸口に木箱を引っ張って行ってそこへふたり腰を落ち着け、ランプは足元に置く。

 巨大樹の方を窺うと、広場の中央に備えられていた燭台には、いつの間にか火が灯っていた。

「ねえねえ」

 モモが足をぶらぶらさせる。小屋の壁で、影が大きく揺れた。

ポタラたちは、どんな任務でここに来てたのかな」

 そういう切り口で尋ねて来るか、と思うのは穿ちすぎだろうか。それでも、ここまで待った上で話題に上らせてくれたのだから、エルマーとしても有難く乗っておくべきだった。

「さあな。ジャンパー同士であっても、任務内容をバラすのはご法度だ。フック社だって同じだろ」

「そりゃそうだけど。ハブ以外の球で同業者に遭遇するって結構レアじゃない?」

「あいつらは抱えてる顧客も多い。どこでどう重なってもおかしくはない」

 サンスーシ社の任務は、あらゆる世界のあらゆる名門とされる限定された顧客から寄せられるものがほとんどだ。それぞれ客によって依頼に個性が出るため、専任担当制でジャンパーを割り当てておいた方がお互いに都合がよい。

「……ロベンが言っていたことが、気になるか」

 話に乗ったからには、避けるわけにもいかないだろうと、エルマーは自分から核心に触れた。

「まあ、気にならないと言えば嘘になるけど」

 モモがほのかに微笑んだ。その顔をできるだけ見ないよう、エルマーは膝の上で組んだ両手に目を落とす。

「俺は、ロベンが言っていたように、イエローストーン家の人間だ。お前がサンスーシ社における血筋の階級をどの程度知っているのかわからないが、おそらく名前だけは聞いたことがあるだろうと思う。サンスーシ社の理事を務める五つの一族の中の、ひとつだ。母はイエローストーン家の長女。父は入り婿で、名門と呼ばれるほどの家柄ではないにしろ、もちろん、純血だ」

 話しながら、エルマーはその内容の空虚さを感じた。血筋。名門。家柄。

「純血の子供は、生まれながらにしてジャンパーだ。技能を身に着けて登録をするまではジャンパーではない、という意識はないに等しい。俺もそうだった。当然のようにジャンパーになるための教育を受けたし、それ以外の道を考えたことはなかった。そして俺はジャンパーになった。17のときだ」

「17?でも、確か、ジャンパー歴は2年だって……」

「ああ、ジャンパー登録したのは18だ。サンスーシ社の規則なのか、単に伝統に則った慣例なのか、登録の前の1年を見習い期間として、身内のジャンパーの補助をする。……ま、身内のジャンパーってのは大抵が親だし、補助というのは名ばかりで、実際は顧客の引継ぎだ。親が抱えていた顧客のすべて、もしくは一部を受け持たされることになるんで、その顧客情報を頭に叩き込み、顧客にご機嫌伺いの挨拶に行く。これが本当に、丸1年かかる」

「うわー……。世界が違うわ。あ、球のことじゃなく」

 ぱっくりと口を開けるモモに、エルマーは苦笑する。そりゃあそうだろう、こんなことをしているのはサンスーシ社だけだ。

 サンスーシ社だけ。この現象を、純血たるサンスーシ社社員は誇りにしてもいるのだけれど。

「この見習い期間に上手くいかない者はジャンパーを諦めるか、サンスーシ社を出るんだが、どっちもほとんどない」

「でしょうねえ。フック社に純血ジャンパーなんて何人いるやら。ホァン社もたぶん同じだと思うけど」

「純血であることとサンスーシ社の社員であることはほぼ同意だからな。これを一対にして、血統の証明だと奴らはのたまう。もちろん、純血であってもサンスーシ社から出る者はいる。さっき言ったように、極めて稀ではあるがな。……だが、その逆はない」

「逆……?」

「純血でない者が、サンスーシ社には入れないし、いられないということだ」

 モモが、エルマーを見て静かに首をかしげているのがわかった。疑問による仕草というよりは、エルマーの自嘲を読み解こうとするように。自嘲。エルマーは間違いなく、そういう種類の笑みを口元に浮かべているはずだと、自覚していた。

「俺は、どうやら純血ではなかったらしいんだ」

「……どういう……?」

「見習い期間を終えて、ジャンパー登録をして、1年が経過した頃だった。俺は、自分でも知らないうちに社内でそこそこの有名人になっていた。ほら、あれだ、目的球誤差ゼロ、ってやつだ」

「ああ……、まあそりゃ有名人にもなるでしょうね」

「口に出すのも恥ずかしい単語だがな、とにかく純血の名門は名誉や栄光が大好きだ。有名になっていくことに俺も鼻高々だったし、両親も喜んでくれているものと思っていた。……だが、違った。両親は、特に母は、俺に注目が集まっていることに不安があった」

「不安?」

「……ふたりがな、俺のことを話しているのを聞いてしまったんだ。父は俺を褒めていた。さすがイエローストーン家の血筋だ、と。母はそれを訊いて、そんな言い方をしないで頂戴あなたの子でもあるのだから、と言った。父は笑って、そうだね私の教育の成果も出ていると思っていいのかな、と返した。……俺は、このやりとりが、なんだか、違和感だった」

 父が血筋を誇る発言をしたのに対して、母の反応は妙に過敏なものだった。それがなんとなく、引っかかった。だから、調べた。

「家の使用人たちに訊いて回ったら、母の結婚の経緯がわかってきた。母は、結婚前に妊娠していたんだ。それを知った祖父が、慌てて、父と結婚をさせた。……つまり、俺と父とは血が繋がっていなかったんだよ」

「……真偽を、確かめたの?」

「母に直接問いただした。母は頑として、俺を父の子だと言ったが、あれは嘘をついている顔だった。俺には、わかる」

 箱入り娘の典型といおうか、母は嘘をつくのが下手だった。それこそが彼女の美徳でもあったのだろうけれど。このときばかりは、なんとしても上手に嘘をついて欲しかった。

「そんなことをしているうちに、どこから漏れたものだか、社内に俺の素性について噂が流れ始めた。父親が誰かわからぬらしい……、それはつまり、純血ではないのではないか、という疑いに繋がる」

「……それで、サンスーシ社を追い出された、とか?」

「追い出されたわけじゃない。自分から出た。まあ、あのままいれば、いずれは追い出されたのかもしれないけどな」

 そう、とうなずいて、モモは何か考えるようにうつむいた。こんなことは、話さないままでもパートナーとはやっていけるだろう、と思っていたのに、こんなにも早く打ち明ける羽目になるとはエルマーも思わなかった。これでパートナー解消を申し出られても、仕方がないことだ。

「あのね、こんな話を聞いてしまったからには、黙っておくのもなあ、と思うから言うけど」

 モモが、うつむいていた顔を上げた。

「あたし、エルマーがパートナーになる直前に、ポタラに頼まれたの。エルマーの仕事の様子を教えて欲しい、って」

ポタラに?」

「うん。エルマーのご両親に頼まれたんだって言ってた」

 それはまったく予想外だった。喜べばいいのか呆れたらいいのか判断がつきかねて、結局どっちつかずに眉を寄せるだけになる。モモが慌てて、まだ何も報告みたいなことはしてないよ、と付け加える。

「戻ってきて欲しいんじゃないのかな?」

「さあな。どっちにしろ、もはや戻りたい、ってだけでサンスーシには戻れないさ。純血の件がはっきりしないことにはな。……それにもう、どっちでもいいんだ。いや、どっちでもいいってことにしたいんだ」

 純血の集うサンスーシ社。その極上の繭から出てみれば、そこは、跳んでもいないのに別世界だった。

「純血こそが真のジャンパーだ、なんて本気で思ってた。でも、フック社へ来てみれば純血であろうがなかろうが、誰もがジャンパーの仕事をしている。歴代最高の依頼数をこなしているピーター殿も純血ではない。俺は、自分が信じていた価値観がバカバカしくなったんだ。……知ってるか?サンスーシ社のハンター任務がどんなものか」

「いや……」

「顧客情報さえ叩き込んでしまえば、依頼はそう難しくない。あのときと同じものを頼む、と言われ同じものを同じ球に取りに行く。それがサンスーシ社のハンター任務だ。リストから依頼を拾う、なんてことはしない。依頼の品を求めて情報収集する必要もなきに等しい」

 ハハッ、と笑い声が漏れた。

「俺は、これまでの自分の価値観を捨てようと思った。純血を貴ぶのも、純血でない者を見下すのも。価値観くらい、すぐ捨てられると思った。……だけど、全然捨てれてない。純血ではないと言われれば純血だと主張したくなるし、義足ジャンパーを見れば反射的に汚らわしく思う。……すまなかった」

「えっ?」

 モモが大げさにのけ反る。そんなに謝罪ができない男に見えていただろうか、などとまた穿ちすぎた考えがよぎる。

「いや、あたしのことは、別に……。慣れてる、ってほどじゃないけど、まあ、たまにあることだし。仕事していくのに支障はなさそうだし。いいよ、捨てなくても。価値観」

「捨てなくてもいい、って……」

「だってさあ、顧客の定番の品を取りに行くだけ、なんてそんな言い方したけどさあ、あたしそんなお偉いお得意様の仕事請け負うなんて絶対嫌だもん。できる気がしないよ。だからさ、今までしてきた仕事は間違っていたんだ、みたいな考え方、しなくていいと思うよ」

 あっけらかんと笑うモモの言葉は、特にエルマーを励まそうとかそういう意図で口に出されたようには聞こえなかった。単に自分の考えを伝えただけだ、というモモの姿勢に、エルマーは改めてこの同僚に関心を抱いた。

「……どうして、ジャンパーになろうと思った?」

「え?」

「俺は、純血の家で生まれ育ったから、ジャンパーになる以外ほかに道はなかった。だが、お前は違うだろう?」

 純血でもなく混血でもない、要するに、ジャンパーの血を持たぬ者がジャンパーとなることを選ぶ理由が、素直に不思議であった。

「んー、それしかなかった、っていう意味では、あたしも同じだよ。あ、失礼、同じではないか。あたし別に名門を背負ってるわけじゃないからねえ。でも、うん、まあ、ジャンパーになるしかなかったんだよ」

 言葉を探すように、また、思い出すように、モモの視線が小屋の外へ向いた。

「あたしはハブ生まれじゃないし、脚をなくすまでジャンパーっていうものが存在することを知らなかったし、それどころか、自分が住んでる世界の他にも世界があるんだってことも考えたことがなかったんだ。まあ、今も異世界って何か、球って何か、って説明できるかっていうと怪しいんだけどさ」

「お前それは……」

「頭悪いんだよ、悪かったなあ!」

 モモはわざとらしく頬を膨らませるが、エルマーが言及したかったのはそこではない。

「いや、脚をなくすまで、って」

「ああ、それかー。あたし、16歳の冬までは脚あったんだよねー。それが、誰かよくわかんないやつに切り落とされちゃって。まあ、生きてただけ幸運なんだけど。このときに両親は殺されちゃってるし」

「っ!?」

 本物の絶句、というやつを、初めてしたかもしれない。エルマーは、まさしく言葉もなくモモの顔を凝視した。そんなふうに、さらりと言えるようなものなのか、と一瞬頭に血が上ったが、ここで自分がモモを怒鳴るのはおかしい。

 そのエルマーの様子を、モモはちらりとだけ見て微笑み、また外に視線を戻した。

「何が起きたかわからなくて、気がついたら目の前に血だらけで倒れている両親がいて。偶然、仕事で跳んできたピーター兄さんがあたしをハブに連れてきてくれて。……気がついたら、脚がなくて。で、そのとき幸運なことに、ちょうどカグの樹の木材が手に入ったところで、これまた幸運なことに、あたしに適合したんだなー。……そういうわけ」

「犯人は、わからないのか」

 当事者であるモモが、どこまでもさらりと、けろっとして、あっけらかんと言うものだから、特別意識しているわけでもないのに、エルマーの声は妙に沈んで聞こえた。

「それが、さーっぱり。心当たりもなければ、手がかりもほとんどなし」

「お前が訊いてた、トクラナという言葉は、これに関係があるのか」

「唯一の手がかり、というやつかな。あたしがあの日、あの場で聞いた言葉……。でもどんな意味なのか全然わからないんだなー」

「その言葉の意味を探すために……いや、犯人を捜すために、ジャンパーになったんだな」

「……別に、それだけのためでもないよ」

 ようやく、というべきか、モモは少しだけ表情を硬くした。

「両親亡くしたってことは、自分で稼いでかなくちゃいけなくなったってことだもの。そこに、こういう仕事があって、ちょうど適正なようだ、って言われたら、そりゃあ乗っかるよ。なるしかないでしょ、ジャンパーに」

「そうだな。……すまない」

「なんでエルマーが謝るのー?」

 あはは、とモモが笑う。その笑みが、エルマーには痛かった。同情ではない。憐れみでもない。いや、むしろ、エルマー自身への憐れみだ。愚かな、自分。

「嫌なことを、思い出させたようだから」

「ううん。だってエルマーにだけ話させといて、自分の話をしないのはフェアじゃないでしょ。それに……そんな嫌なことだと思ってないから」

 唇で微笑んだモモが、ブーツの上から脚を撫でた。無意識のように動いたその手は、義足を労わるしぐさに見えて、けれど決してそうではないと思わせるに充分なそっけなさがあった。エルマーは口にする言葉を、見つけられなかった。モモがうーん、と背筋を伸ばした。

「ねえ、エルマー。眠くないならさ、あたし、先にもう一度仮眠取らせてもらってもいい?適当なところで起こしてよ、交代するから」

「……ああ、構わない、寝ろよ」

 先に眠れ、と言われてもとても眠れそうにはなかったので、モモの申し出はむしろ有難く、エルマーは快諾した。

 気遣うべき相手に気遣われたのだ、とエルマーが気がついたのは、すでに横になったモモが背後で寝息を立て始めてからだった。

 

次回更新は4/20頃の予定です

連載第九回 トルネリコ

 トルネリコが近づくにつれて、周囲の様子に変化が見られた。図書館で感じた、誰が何をしていようが気に留める者などいないというような、都市気質の雰囲気が薄れ、代わりに排他的な空気が濃厚になってきた。端的に言うと、住民たちの好奇の目を感じるようになったのだ。
「もうちょっとで着くかな、兄さん」
「……ああ、そろそろだろう」
 些細な会話にも耳をそばだてられていると思って良い。兄さん、と呼ばれることに抵抗感はあるが、仕事なのだから仕方がない。
 街の真ん中に森がある、と今朝モモが言ったのが、トルネリコという樹のことであったようだ。森だと思ったのも無理からぬことだ、とエルマーも思った。ここまで近くへ来なければ、とても一本の樹だとは信じられぬほど、その枝葉は高く広く厚く、青々としていた。
 樹の根元まで数十メートル、というところまで来て、エルマーとモモはまるで示し合わせたかのように同時に歩みを止めた。一瞬、目的を忘れて、ただただ巨大樹を見上げる。荘厳、と言うにふさわしい立ち姿であった。これだけで、支配者であるということに納得してしまいそうになる。はあ、と隣でモモが熱を持った息を吐いた。何を語りかけられたわけでもないのに、エルマーは、それにゆっくりとうなずいた。
「何か、用か」
 不意に声をかけられて振り向くと、真っ黒な髭をたくわえた男が立っていた。警戒心むき出しの強張った頬に、エルマーの眉間もまた強張った。
「はじめまして、こんにちは!あたしたち、トルネリコの夜間警備員を募集してるって聞いて来たんですけど……、応募はどこに申し出たらいいんでしょうか」
 エルマーを押しのけるようにして、モモが前に出た。目の前の男は間違いなく初対面だというのに、にこやかに、快活に話しかける。
「夜間警備員?」
 男が訊きかえしたその言葉を、エルマーは自分の口から出てしまったものなのではないかと、一瞬思った。そんな募集、モモはどこで知ったというのだろう。
「そんなのは聞いたことが……」
「ねえ、あれじゃないかね?長老さまが、見張りを立てるのに人が足らないとかなんとか言ってたじゃないか」
 首をかしげる髭の男に、どこから現れたものだか、恰幅のいい女性が声をかけた。
「ああ、そういえば……。あれ本当に募集をかけたのか?」
「そうじゃないのかねえ?こないだ、酒蔵の息子たちが何か張り紙を配っていたけれど?」
「長老に確かめた方がいいな」
「そうだね。……ちょいとー!長老さまのところまでひとっ走りしておくれ」
 たっぷりとしたスカートのすそを持ち上げて小走りに、その女性はすぐそばを通りかかった少年を呼び止めていた。髭の男はエルマーとモモに向き直ると、このまま待つようにと短く伝えて、ふたりの前から姿を消した。エルマーは今のうちに、と素早くモモに耳打ちで尋ねる。
「……おい、その募集の情報、いつの間に聞きつけてきたんだ」
「今朝覗いたお店のショーウィンドウの内側に張り紙あった」
 同じく耳打ちを返してきたモモに、エルマーは思わず舌打ちをした。してしまってから内心で慌てたが、幸い、モモ以外には聞こえていなかったようだ。
 こうなってしまった以上、なんとかその夜間警備員に採用されるしかない。好都合といえば好都合だったが、これで果たして効率よく情報が集められるかは定かではない。少なくとも、対抗勢力と予想される議会派とやらの方の調査は困難になるのではないだろうか。そう考えるうちに自然、渋面となってしまっているエルマーに、モモはなおも何か言おうとしたようだったが、髭の男が戻ってきたために開きかけた口を閉ざした。髭の男の半歩前を、小柄な老人が杖を突きつつやってきた。皺の多い頬であるのに、妙につやつやと輝いて見える肌を持つその老人は、好々爺とした笑顔をふたりに向けた。
「いやあ、お待たせしたようだね」
「いえ!わざわざご足労いただきましたようで、ありがとうございます」
 モモがにこにことお辞儀をすると、老人は嬉しそうにふぉふぉ、と笑った。
「お若いのに随分としっかりした挨拶をしてくださるね。ウチの孫たちにも見習わせたいものだよ。……さて。夜間警備の仕事に、応募してくださるとな?」
「はい。旅の途中なものですから、短い期間となってしまうんですが、それで差し支えなければ、是非」
「ふむ。そう物騒なことをお願いするつもりはないのだがね、それでも警備というからにはそれなりに、腕っぷしというものが欲しいんだがねえ。失礼なことを言うようだが、その、お嬢さんはとてもそうは見えないがねえ?」
「あはは!それはむしろ嬉しいお言葉です。実は結構、やるんですよ?それに、あたしだけでは確かに頼りないかもしれませんが、兄は、本当に腕が立ちますし」
 兄は、と言いながらチラリ、とモモはエルマーに視線を流す。エルマーは黙って頭を下げた。下げてから、笑顔を作り損ねたことに気がついた。
「すみません、昔から無愛想で」
 誰が無愛想だ、と内心で毒づきつつも、こうなったらもう喋りはすべてモモに任せることにして、エルマーはそっと横目で周囲を確認した。先ほどの恰幅のいい女性をはじめ、近隣住民と思われる人々が数人、ふたりを窺うようにしていた。敵意を感じるような視線はない。むしろ、エルマーたちが敵意を持っているのではないかと疑うような目つきをしていた。
 エルマーが思うに、彼らはこの巨大樹・トルネリコを信仰の対象としている者たちなのだろう。その信仰を基盤とした社会構成が古くからあり、それを守ろうとしている者たちと、時代に合わせた行政を遂行して行こうとする議会の流れが衝突しているのだろう。
「頼りになりそうなお兄さんだねぇ。お二人はおいくつかな?」
「あたしが18、兄が22です」
 実年齢よりも上下にふたつずつズラすことにしたらしい。外見的な年齢からいえば、まあ妥当だ。
「そうだ、名乗ってなかったですね、失礼しました。あたしはモモといいます。兄はエルマー。ヤード国の出身です。ホウル国には初めてお邪魔しましたので、勝手のわからないことが多いですが、お役に立てましたら」
「ほほう、ヤードから。それは長旅でございましたなあ。ここから、どちらへ?」
「ホウルの首都へ向かう予定なのですが……、宿賃の目算を誤りまして、少々、懐が頼りないのです。首都へ出てしまえばもっとお金がかかるだろう、ということで困っていたところに、張り紙を見つけまして、これは幸運だ、と応募したわけなんです。まったく、田舎者ゆえの世間知らずでお恥ずかしい話でございます」
「なるほどなるほど。しかし、どんなに短くても三日ほどはお願いしたいが、お時間はよろしいのかな」
「はい、それは構いません。時間はあっても金はない、というやつです」
 あはは、と笑うモモに、長老もまたふぉふぉ、と笑った。よくもまあ、そうすらすら口から出まかせが言えるもんだ、と呆れつつも、モモが話した内容を頭の中で反復する。これに矛盾が出るような発言と行動は避けなければならない。
「ふむ。お願いしてみてもよさそうだの」
「長老!そんな簡単に!向こう側の、諜報員かもしれません!」
 髭の男が身を乗り出して気色ばんだ。向こう側、という言い方に、エルマーははっきりした対立の図式があることを感じとる。
「そうであったとしたら、トルネリコが決して傍には置かぬ。無用な心配だよ、ダガー。……と、言うわけでのう、儂はあなた方にお願いしてもよいと思うのだが、それを決めるのはトルネリコご自身なのでなあ」
「はあ……」
「ははは、困惑されるのも無理はないのう。しかしまぁ、一度体験されるのが手っ取り早かろう。……ダガー、お連れしなさい」
 ダガーと呼ばれた髭の男は、さすがにぽかんとしているモモをちらりと一瞥して、不本意そうにうなずいた。こちらへ、と促されてゆるく傾斜になった小道を進む。巨大樹をとりまくようにして続いているらしい小道の突き当りは開けた平地になっていて、おそらくは人工的にならして広場としたものと思われた。簡易的な小屋が斜面ギリギリに建てられ、その対角線上に巨大樹・トルネリコが腰を落ち着けていた。巨大樹を守るように、平地の中央には3本の燭台がある。夜になればここに火が入れられるのだろう。つまりは、ここがトルネリコの正面ということになるわけだ。
 先導していたダガーが深々と一礼して巨大樹の前へ進み出ていくのに倣い、エルマーとモモも慌てて一礼をする。その後ろから、一人の少年に付き添われて長老がやってきた。
「お二方、そのままもう少し、前へお進みくだされ。トルネリコの前で、深呼吸をして、心を静かに、立っていていただけますかな。ああ、目は開いたままで構いませぬよ。閉じてもよいがね」
 長老の言葉に従って、エルマーとモモは巨大樹のごく近くまで歩を進めた。ダガーは後ろへ退いて長老の隣に控えるように立った。
 深呼吸をする前に、エルマーはちらりと横目でモモを見た。けれどもモモはこちらを見ることなく、すでにトルネリコに魅入られたように視線を上へ持ち上げていた。エルマーも視線を前へやり、ゆっくりと、深呼吸をした。瞼は、自然に目の上へ降りてきた。
 途端に、爽やかな木の葉の香りが、すう、と鼻を通り額へ抜けた。
 言葉が入ってきた。けれどもそれは、目でも、耳でもないところを刺激するものだった。けれどもそれでも、確かに言葉であった。


 〝見届けて〟
 〝ただ見届けて。それだけが〟
 〝最後の望み〟
 〝そして貴方も、上げられる、伏せたその顔。差しだせる、下げたその腕〟
 〝見届けて〟


 ぐわり、と真上から頭を鷲づかみにされたように感じて、エルマーはハッと瞼を開いた。視界に飛び込んできた、幹の濃き色に、一瞬まだ閉じた世界にいるような気がして、けれどすぐにそうではないと悟った。
「これは……」
 思わず、声が出た。今の現象に対する驚きもあったが、自分の予想が裏切られたことに対しての驚きもあった。
 これは、信仰などではない。ここの住民たちは、ただこの巨大樹の霊験を信じているわけではない。この巨大樹の言葉を体験してるのだ。その言葉が確かに道を示すものであると、体験してわかっているのだ。信仰などではない。これはまさしく。
「統治だ……」
 道を知る者による、統治だ。
 ふ、と空気が動くのを感じて隣を見ると。
「え……」
 モモは初めから開いていた目をいっそう大きく見開いて、両手を巨大樹の方へ差しだしていた。その手を、引き上げてもらえることがわかっているかのように。おい、と声をかけようとして、声が出なかった。それは澄んだ水に手を入れるのを躊躇う感覚と似ていた。
 そう長い時間ではなかったと思う。モモの腕はするすると降りてきて、首が痛くなりそうなほどに見上げられた顔も、ゆっくりと伏せられた。モモも同じ言葉を受け取ったのだろうか、いや、違うものだろう。
「……支配じゃない」
 ぽそりと、モモが言った。
「支配じゃない、これは守護だ……、守り治めているんだね、ここを」
「……ああ」
 統治、という表現を柔らかくすれば、そういうことになるだろうか。その言い回しはエルマーにも好もしく思えた。
「お嬢さんの方が特に気に入られたようですな」
 長老が、にこにことそう言った。その笑顔は、どこかホッとしているようにも見えた。唇を震わせているモモに代わって、エルマーは端的に尋ねる。
「採用していただけたんでしょうか」
「ええ、そのようですよ」
 満足そうにうなずき、長老はゆっくりとふたりに近づいてきた。
「よろしく頼みます」
 握手を求められ、骨ばった、けれども力強い手と握り合った。
「夜間警備の内容は単純です。夜の間、トルネリコに近づく者がないかどうか、見張ってくださればよい。あの小屋を使ってください。食事はこちらで用意させましょう」
「……トルネリコに近づいて何かしようという者が、いるということですか」
「……現れるかもしれない、ということだね。それを知らなければ仕事はできんかね?」
「いいえ。ただ、どのようなことをされる可能性があるのか、それを知っておいた方が防ぎやすいとは考えます」
「うむ、道理じゃの。トルネリコを切り倒そうとしておる者が、おるらしくてね」
 穏やかなままではあったが、長老の表情は曇った。少し離れて聞いているダガーの表情は、もっとわかりやすく険しかった。
震えから回復したらしいモモが、エルマーから会話を引き継ぐ。
「切り倒す?こんな大きな樹を?とても無理そうに思えますけど」
「容易ではないだろうね。だが、トルネリコがいかに立派であっても、樹であることは変えられぬ。切り倒そうとすればできるし、燃やそうと思えば燃やせる」
 モモは黙ってうなずいた。
「日が落ちるまでまだしばらくある。小屋で仮眠でもお取りくだされ」
 長老は、ダガーと少年に付き添われて、立ち去ろうとした。
「あの!」
 その背に、モモが声をかける。まるで切羽詰ったようなその声の出し方に、エルマーは目を見張った。
「まったく個人的な質問なんですけれど」
「何かな?」
「長老さまは、トクラナ、という言葉にお聞き覚えはございませんか」
「はて……。人の名前か何かかね?」
「いえ、それもわからないんです」
 トクラナ。今朝、エルマーにも問うていた単語だ。任務中だというのに個人的なことを、と憤るよりも先に、一体何を示す言葉なのか、ということがエルマーも気になった。
「そうか……。いや、申し訳ないが、聞いたことがないねえ」
「そうですか。ありがとうございます」
 さして落胆した様子も見せずに、モモは会釈した。自分が問われたときにも思ったが、この質問と空振りの回答はおそらく何度となく繰り返されてきたものなのだろう。
「……お嬢さん。トルネリコは何でも知っている」
 長老が、静かに言った。
「だが、何でも教えてくれるとは限らない」
「……はい」
 モモの返事に微笑んで、今度こそ長老はその場を去った。

 

 

※次回の更新は3/30頃の予定です。

連載第八回 調査開始

 義足ジャンパーだというこの小柄な少女をどう扱って良いか、エルマーにはわからなかった。少女、にしか見えぬが同い年だという彼女は、見た目に反してしっかりとした物言いをする上、エルマーの差別的な発言にも怯まず、また激怒することもなく理性的な反論をしてきた。
 そう、あの差別的な発言をしてしまったことに関しては、激しく後悔がある。溜息だけはこらえて、エルマーは眉をきつく寄せた。あの価値基準が自分の根底にあるのだということを、エルマーは認めたくなかった。けれども、あの発言はそれを裏付けてしまっていた。
「ああ、随分明るくなってきたねえ」
 そう言うモモの首の動きにつられて、エルマーも東の空を見た。鮮やかに赤かった色が薄くぼやけて、空全体が明るくなってきている。
「気候は穏やかな頃みたいね。よかったー、ここのところ、暑いとこばっかりだったからさあ」
 のんびりとそんなことを言うモモの横顔は穏やかだ。どう考えても好意的ではない態度を取り続けているエルマーに対して、こうも鷹揚に構えていられるというのは一体どういうわけなのだろうと思う。自分がひどく子どもっぽく感じられてしまって、エルマーは余計にイライラした。
「さて。そろそろ北東地方に入るわけだけど、どこから調査に入る?」
「そうだな……」
 雑談にはほとんど返答をしなかったが、任務の話となればせざるを得ない。調査任務が初めてなのは、エルマーとて同じだった。正直なところ、方法についての自信はない。だが、調査、というもののセオリーに則ればいいのではないかと考えていた。
「図書館のような施設があれば、そこからだな。新聞を調べる」
「ははあ、新聞すか」
「……不満なのか?」
「いーや」
 そのセリフが本音なのかどうか、エルマーにはわからなかったが、不満ではないにしろ、モモの考えは違うものであったらしいことはわかった。
「……お前は普段、どうしてるんだ、ハンター任務のときは」
「あたし?あたしは基本、聞きこみかなー」
「聞きこみ?直接、住民に、か?」
「そうだけど?」
 こともなげに言うモモの顔を、エルマーはしげしげと眺めた。
「え、そんなに驚くこと?」
「いや……」
 エルマーは視線をそらして言葉を濁した。
 わかってはいたことであった。サンスーシ社が依頼を受ける任務と、フック社のそれとはまったく、性質の異なるものだということは。
「じゃ、最初図書館を探すのね。関係性の設定はどうしようか……、兄妹、が無難かね」
「関係性の設定?」
「そ。君ら何者、って訊かれたとき、その場で嘘をでっちあげるのはリスクが高いでしょ、ふたりだと余計に」
「ああ……」
 なるほど、と言いそうになったのを飲み込んだ。モモの方が上手であると、認めてしまうようなものだ。
「そ、それにしたって、兄妹というのはどうなんだ。同い年だろう」
「自分で言うのもなんだけど、あたしの方が年下に見えるでしょ?ご不満なら、恋人とかにしておく?」
「……兄妹でいい」
 顔を合わせた日と同じだ。それを選ぶしかないのに、それはわかっているのに、無駄な反論をしてしまう。結局のところ、モモの方が上手であるというのは、エルマーが認めるも認めないもなく事実なのだ。
 またも渋面を作ったエルマーに、モモはきわめてあっさり、じゃあそれで、と言って、北東地方で一番大きな街の、さらに中心部を目指すことを確認した。
 途中、道端で休憩を取りつつ、第九八球に到着してから二時間ほども歩いただろうか、だんだんと民家が増え、人通りも出てくると、モモは興味深そうにきょろきょろ周りを見回した。街の真ん中に森があるのかねえ、などと言って遠くにこんもりと見える緑を指さしたかと思うと足元の石畳を覗き込んで具合を確かめたりしている。わかりやすくもの珍しそうにしやがって、とエルマーが溜息をついたそのとき、モモが小さなショーウィンドウを構えた店に向かって小走りに駆けて行った。
「お、おい!」
 エルマーが慌ててモモを追うと、彼女はショーウィンドウを熱心に、いや、ショーウィンドウの向こう側の、店内の様子までも目に入れようと覗き込んでいた。女ってやつは、と内心で悪態をつき、肩に手を伸ばすと、モモは触れられる前にサッと身を翻して店から離れた。
「着替える必要性はなさそうかなあ、この格好でも。悪目立ちするってことはなさそう」
 そんなことを言って、すたすた歩いて行く。
「調べてないのか、事前に?」
「基本情報は目を通したよ、もちろん。だけど、こういう種類のことは自分の目で確かめたい性格なんだよね、ごめんね時間取らせて」
 ごめんね、と言う割には申し訳ないと思っているようなふうでもなく、モモは軽く肩をすくめた。その様子に、エルマーはなぜだかひどく打ちのめされたような気分になって、けれどもそれを気取られるのだけは避けたくて、黙ってまた隣を歩いた。
 基本情報に記載があったが、第九八球ホウル国の文化レベルはマイナス五十。つまり、五十年前のハブと同じレベルだということだ。電子機器がほぼない時代のハブだと考えておけばいい。……と、思っていたのだが、そう頭で理解しているのと、実際に降り立ってみるのとではたいぶ印象に差があるようだった。
 街の建物は、どれも同じ材質を使用しているのか、一様に白っぽい壁を見せて並んでいた。整備された街道の街路樹だけでなく、家と家の間にも草木が多く、壁の白と枝葉の緑のコントラストは非常に印象的なものとしてエルマーの目に映った。その中でも、森でもあるのか、とモモが言ったように、街のほぼ中心部と思われる位置に見えるこんもりとした緑の盛り上がりは相当目立っていた。丘か山のようにも見えたが、それにしては盛り上がり方が急すぎるように思えた。
 図書館へは、特に迷うこともなく辿り着くことができた。街道のいたるところに黄色い案内板があったからだ。緑と白が彩る街の景観を、まるでぶち壊そうとしているかのような派手さだったのには、美的感覚に自信のないエルマーでさえ閉口したが、そのおかげで迷わなかったのだから文句は言えまい。
図書館は石造りの立派な建物で、よそ者を寄せ付けぬ雰囲気があった。もちろんそれに気圧されるわけにはいかない。図書館の向かいには、同じく石造りの大きな建物があり、どうやらそれがこの地方の庁舎のようだった。エルマーとモモは、その庁舎にちらりと視線を向けてから、図書館へ入った。
 広々とした図書館は、開館したばかりの時間帯だからだろうか、利用者は少なく、その誰もが己の手元の書物に夢中であった。カウンターにいる職員も、特にエルマーとモモの方を窺う様子はない。他人に構わぬ都市気質のところでよかった、と思った。
 

 〝トルネリコ祭、今年も盛大に〟
 〝ローダーの出荷ピーク〟
 〝国王陛下、隣国大使と会談〟


 一面に踊るこれらの見出しは、ここ十日間ほどの新聞のものだった。そう簡単に鍵となりそうなものが見つかると思っていたわけではないが、鍵の手がかり、くらいのものは拾い上げたいところだ。とりあえず、国全体の事柄ではあるが〝統治状況〟に関係がありそうなのは国王と大使の会談の記事であろうか、とナナメ読みをして、ふと、向かいで同じく新聞を手にするモモを見た。少し唇を突き出すふうにして。左の人差し指をこめかみにあてている。
 新聞記事を構成しているのは、単語や文法どころか、文字からしてハブで慣れ親しんだものとは似ても似つかない。ジャンパーの登録をしたときに体内に埋め込まれた自動翻訳機のおかげで読むにも書くにも話すにも、困ったことはないが。義足ジャンパーということは、モモはハブ生まれでない可能性が高い。実は最初から二人とも別々の言語で会話しているのだ、ということを考えると、妙に不思議な気がした。
「ねえねえ」
 その、おそらくはエルマーの母語とは違う言語で、モモが呼んだ。
「これ」
 モモが示して見せたのは、トルネリコ祭という北東地方で毎年行われている祭についての記事だった。
「祭がどうかしたのか」
「うん」
 モモは記事の後半をとんとん、と指で叩いた。


増税はならぬ、というトルネリコの決定を無視せんとする議会派による妨害行為が懸念されていたが、目立った衝突は見られず、祭は無事終了した』


 増税、衝突、という言葉に目を見張る。
「トルネリコという支配者に、反対している勢力がある、ということか」
 モモが神妙な顔つきでうなずいてから、ただ、とため息のように言った。
「ただ、何だ」
「何度か読んでみたけど、どう考えてもその支配者っていうトルネリコというのは、樹木の名前なんだなー」
 紙面に乗せられたままだったモモの指が、するりと滑って文章の隣の写真を示した。樹齢何百年、と思われる巨大な樹木の姿だった。
「どういう、ことだ……?」
「それを調べるのが、あたしたちのお仕事ってことかなー」
「……そんなことはわかっている」
 モモの軽い調子が癇に障って、ムッとした声が出た。
「何怒ってんのー?」
 エルマーは黙って新聞を棚に戻すと立ち上がった。まずはその樹とやらを見に行くべきだろう。いや、先に議会派とやらか、と図書館を出てすぐ、向かいの庁舎を見上げる。と、見知った顔がふたつ、そこから現れた。エルマーの体が、反射的に固まる。
「おやぁ?坊ちゃんじゃないですか」
 巨躯と呼んで差し支えない大きさの男が笑う。その隣で紫の髪の女性が目を見張っていた。
「リュー……いえ、エルマー。あなた方もここだったのね」
「ちょっと待ってよエルマー、ってあ、ポタラ!とロベン」
 遅れて出て来たモモが、エルマーの隣でふたりと顔を合わせた。
「へえ?それが坊ちゃんのパートナーですか」
 ロベンがニヤリとした。
「よく平気ですなあ、さすが名門といったところですか、いやー、心が広い。〝ツギハギ〟と組まされても平然としていられるとはね」
「ロベン」
 ポタラが窘めるように名を呼ぶが、ロベンはなおも明らかな嘲りをこめた声でエルマーに話しかけた。
「俺ならとても我慢できませんね。体内の純血が本能で拒否をしますよ。坊ちゃんはしないんですか?……ああ、流れてる血が違えば、そりゃあしないか」
「っ!!」
「ロベン!!」
 エルマーが鋭くロベンを睨み上げたのと、ポタラが叫ぶように呼んだのは、ほぼ同時だった。
 怒りがカッと頭に上っていたが、血の気が引くような感覚もあり、エルマーは自分が今どんな顔色でいるのかわからなかった。睫毛の上で蛍が飛び交っているように、目の前がチカチカした。
「ああ、凄い目ですなあ。名門イエローストーン家の坊ちゃんでも、そんな目ができるんですなあ。それも血脈のなせる業なんですか?」
「ロベン!いい加減になさい!」
 ポタラがロベンの正面へ立ちふさがって怒鳴った。彼女が立ちふさがってもロベンの顔は少しも隠れず、ロベンは切れ長の眼ではっきりと微笑んで肩をすくめて見せた。
「エルマー」
 すぐ隣で声がした。いつからそうしていたのだろうか、モモがエルマーを見上げていた。穏やかに、エルマーをエルマー、と呼ぶ顔には、不安や心配のようなものも、焦燥や悲哀のようなものも浮かんでおらず、ただ静かだった。
「仕事しよう」
「……ああ」
 ゆっくりと息を吐いて、エルマーはうなずいた。睫毛の先の蛍は飛び去っていた。
「じゃあね、ポタラ
 モモが笑顔で手を振って、エルマーはふたりの方を見ることもなく、庁舎の前を去った。
「トルネリコはもう少し東らしいよ。っていうか、きっと、あそこにずっと見えてる森だよね」
「お前なんで知ってんだそんなこと」
「図書館で調べて来たからに決まってんでしょ?エルマー、さっさと出てっちゃうんだもん。結構せっかちなんだね」
 面白そうに笑うのがまた癇に障るが、変なふうに気遣われるよりは何倍もマシというものだった。自然すぎていっそ不自然なほどにモモは変わらぬ態度で接してくる。エルマーの素性を知ったのは、おそらくは今のことであるはずなのに。
 お前何も訊かないのか、などとエルマーの方から口走ってしまいそうで、唇を軽く噛んだ。

連載第七回 ターミナル

『第98球における調査任務 ホウル国北東地方の基本情報更新のため、統治状況を中心に再調査のこと。任務着任は本日より三日以内に』


 任務内容を3回読んでから、モモは通信端末に第98球の基本情報を呼び出した。これが、モモたちの調査任務の結果、書き直される可能性があるということだ。
「第98球……、基本原理球。恒星ひとつ。衛星みっつ、生命が確認されているのはその内ひとつのみ……、5か国を有し、言語は同一、か。とりあえず、基本原理球ってのは相当安心材料だなー……」
 自室のベッドに寝転んで、モモは呟いた。基本原理でない球はそれだけで任務の難易度が上がる。空が黄色だったり緑だったり、というのはまだいいとして、重力に大きく差がある場合が一番困る。歩行だけで一苦労だ。
 あとはホウル国の文化基準などの情報を中心に、一通り目を通す。決して少なくはない分量だが、第12球や第108球に比べれば可愛いものだ。
 任務着任は三日以内に、とあったけれど、特に三日もかけてすべき準備もないので、仮眠を取ったらすぐ出発することにしていた。もちろんエルマーと相談しての決定なわけだけれど、すべて通信端末を用いて行ったため、顔をあわせてはいない。面と向かって話せばよい関係に発展したのではないか、なんてことは少しも思っていなかったので、特にそれに関して不満はない。
 出発ターミナルに集合すると決めた時間まで、あと30分というところで、モモは起き上がった。ベッドの上に投げ出していたベルトを腰に巻いて、くくりつけてあるポーチの中身を確かめる。最後にブーツを履きながら、特に腹は立たないな、とモモは思った。エルマーのことである。不信感を持たれた状態で仕事をするのはやりにくいに違いなく不安ではあるけれど、義足ジャンパーだと蔑まれたことに対する怒りは、ほとんどなかった。
 義足であることを誰よりも疎んでいるのは、自分自身なのかもしれない、という思いがモモの胸をよぎる。
「ごめんね」
 モモはブーツの上から義足をなでて、部屋を出た。
 部屋を出てすぐのところで、ピーターの姿を見つけ、笑顔になる。
「今、お前の部屋に行こうとしていたところだよ。もしかして、もう出発するのか?」
「そうなの。まあ、伸ばす理由もないから。何かご用事でした?」
 モモは、相手がピーターだけだと少し物言いが砕ける。嬉しさを隠そうともせず、満面の笑みでピーターを見上げた。
「ああ………、今からターミナル?」
「うん」
 歩きながら話そう、とピーターはモモと共にターミナルへ足を向けた。
「第98球のことを、俺が知っている限りで教えておこうと思って」
「助かりますー!」
「基本情報は?」
「一通り読んだよ」
「うん、それで何か気になった点は?」
「んー、任務内容にはホウル国北東地方の〝再調査〟とあった……、それなのに、その、少なくとも一度はあったはずの調査の内容が基本情報に反映されているようには思えなくて……。第98球はそんなに新しい球でもなかったはずだし」
「そう、まさしくそこなんだ」
 ピーターは満足そうにした。
「前の調査は、ホウル国全体を対象範囲にしたもので、北東地方に関しては〝どうやらこの地方だけ違う支配系統を持っているらしい〟というところまでしかわからなかった。不確定すぎたんで、文書化できなかったんだよ。それで今回、北東地方のみをみっちり調査してもらうことになってるわけさ」
「ははあ、なるほど。じゃ、これクライアントからの依頼ではなくてジャンパーのための資料の調査なんですね?」
「それはナイショ」
 人差し指をそっと唇にあてる仕草をごく自然にしたピーターを見て、モモは頭を抱えた。この歳の男性がそんなお茶目なことするとか反則すぎる。
「そこはハンター任務と同じだよ、モモ。依頼先についてはジャンパーには教えられない。知っているだろう?」
「あ、はい、知ってます、知ってますけどもね……」
 モモが苦笑したとき、ターミナルの門が見えてきた。
「ターミナル、っていうか滑走路なんだけどねえ」
「モモ、それいつもやるよね、ターミナルの名称にケチつけるの」
「ケチつける、って言わないでよピーター兄さん。っていうか、ここまで来ちゃって良かったの?お見送りしてくれるの?」
「ああ、そのつもりだよ。お見送り、というか……、ちょっと心配でもあってね」
「心配?」
「モモ、複数人で跳ぶときの方法、覚えてるかい?」
「え?」
 モモはジャンパーになってからずっと、単独での仕事しかしてきていない。跳ぶときはいつもひとりだ。誰かと跳んだ経験というのは、過去に。
「……あ」
「思い出した?」
「うん。ジャンパーになる前の、教育期間だ。何度か、ピーター兄さんが一緒に跳んでくれた……、ってことは、ええ!?」
「そういうことだ。エルマーも、忘れてたみたいだな、来て良かった」
 ピーターが笑いながら振り返ると、苦しそうにも見えるほど眉をしかめたエルマーがそこにいた。モモとピーターの会話は、ある程度聞こえていたらしい。
「……お気遣いに感謝します。コースの申請は」
 エルマーは渋面のままピーターに頭を下げて、モモに問う。まだ、と首を横に振ると黙ってターミナルの門を潜って行ってしまった。
「すぐ使えるらしい。赤コースだ」
 モモたちがターミナルに入ると、すでにコース申請を済ませたらしいエルマーが赤いランプが光るコースを指さした。
「はいよ」
 モモはうなずくと、ピーターに手を振ってコースに向かう。助走用の道が何本も設けられたこのターミナルは、3社合同で使用している。今日は出発のジャンパーが少なかったのだろうか、いつもより空いていた。助走路の区切りと距離を示す役目を担うランプの前にふたり横並びで立つと、モモはエルマーに左手を差し出した。いまだ渋面のままのエルマーに苦笑してしまう。
「そう嫌そうな顔されるとさすがに傷つくんですけど?バイ菌なんてついてないよ」
「もともとこういう顔だ」
 そうは言い返しつつもさすがに少しバツが悪そうに、エルマーはモモの手を取った。
「歩幅は」
「目盛りみっつくらい。広げようか?」
「いや、いい。そっちに合わせる」
 等間隔に並ぶ赤いランプを横目で確認してから、モモはうなずいた。
「行くぞ」
「うん」
「座標、第98球。3、2、1!」
 呼吸を合わせ、ふたりは駆け出した。
 視線を、足元から上へ移動させていく。体が浮き上がって、桔梗色の空が近くなった。
 目の前が、ぐうん、と開けた。
 すわっとした、いつもの浮遊感。風が体を通り抜けてゆく感じ。
 この感覚が好きだから、モモはジャンパーをやっていられる、と思う。
 何か見えたわけではないのに、手を伸ばそうとしてしまって、気がついた。今日は、手を繋いでいる相手がいる。
 それに気がついた途端に、その手をぐん、と引かれたように下降が始まった。
 桔梗色だった空が、少しずつ橙色、いや紅に変わって、ああ夕焼け、と思った瞬間に、両脚が地面をとらえた。着地のときによろめくようなことがなくなったのは、いつ頃からかな、なんて考えが浮かんで、その答えが出る前に消えた。放牧場だろうか、青々と草の生い茂る、人影も民家も見当たらないだだっ広いところへ降り立っていた。
「おい、お前跳ぶとき気持ち持っていかれすぎじゃないか」
「え、そう?いつもこんな感じだけど」
 エルマーはまたあの眉をしかめた渋面でモモを眺めると、まあいい、と呟いてコンパスをぱかりと開いた。
「第98球、ホウル国。……北東地方より、やや南寄りのところに降りてしまったか。まあ許容範囲の誤差だな」
「うっわあ、予想以上の正確さ……、国までドンピシャかあ。さすが誤差ゼロの男」
「……誤差の話、聞いてたのか」
「え、うん、まあ」
 チッ、と舌打ちされてモモは戸惑った。素直に感心したつもりだったのだが、地雷だっただろうか。モモの心配をよそに、エルマーはサッと周囲に目を走らせて道を見つけたようだった。
「移動手段を調達するより歩いた方が早い距離だな。行くぞ」
「あ、うん、でも」
 でももうすぐ夜じゃ、と言いかけて、モモは自分の勘違いを悟った。夕焼けに見えていたのは朝焼けで、今から夜が明けるところなのだ。
「どうした」
「えーっと……、手……」
 自分の勘違いを明かす代わりに、着地してからも繋いだままであった手を示すと、エルマーは必要以上に勢いよく、それを振りほどいた。だからバイ菌はついてないって、と苦笑しつつ、モモは先に歩き出したエルマーの背を追った。
「ねえねえ」
 どうせ歩いている間に雑談をする気などないのだろうと、モモは拒絶を念頭に置いてエルマーに声をかけた。エルマーはちらり、と明らかに意図した見下ろす視線でモモを見た。少し迷うように瞳を動かしてから、小さく、何だ、と返す。無視されなかった、というのは意外であった。
「ジャンパーになって2年、だっけ?これまで跳んだ球でさ、どこでもいいんだけどさ、トクラナ、って言葉聞かなかった?」
「トクラナ?どういう意味だ?」
「いやー、どういう意味なのかは非常に残念なことながら、あたしにもわからないんだけど」
「なんだそれは」
 エルマーがふん、と鼻を鳴らして前を見る。モモも軽く笑って、エルマーから視線を外した。
「まあ、ちょっと何か思い当たることとか、思い出したらさ、教えてよ」
「任務に関係あることか?」
「ううん、完全に個人的なこと」
 ポーチからキャラメルを取り出して、エルマーにすすめてみたが、無言で断られた。
「……ピーター殿の、妹、なのか?」
「へ?」
 前を向いたまま、ぼそりと問われて、モモは一瞬意味がわからなかったが、ああ、と思い当たって笑った。エルマーは、モモがピーターを兄さん、と呼んでいたのを聞いたのだろう。
「違うよ。血のつながりはないの。兄貴分、っていう意味」
「……そうか」
 それきり、エルマーは口を開かなかったけれど、モモはなんとなく、抱えていた不安が減ったように感じていた。
 キャラメルが、甘くてやわく、溶けていた。