カグの樹の脚

つばめ綺譚社の紺堂カヤの小説『カグの樹の脚』を連載形式で順次公開してゆきます。

連載第一回 空からおりてきた少女

 

 吸込青(すいこみあお)、という色がある。

 

         

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 真夏の昼過ぎ、いちばん日差しの強い時間の、入道雲のむこうに広がる空の色である。ほかの色という色を、すべて吸い込んでしまった深い、深い青は、空を見上げる者の視線を捕らえる。

 古代よりこの色は人々の心を動かし、手に入れたいと渇望させた。絵画に、陶磁器に、織物に、とあらゆる方法で再現しようと躍起になったが、いまだ成し遂げられていない。

 あの青を手に入れられたら、それはつまり巨万の富を手に入れることになるんだろうなあ。と、去年の夏にメロが言ったのを、そんな考えで崇高な色を汚すなよ、と勇ましく返したけれど、借金を抱えることになった今となっては二度と同じことは口に出せそうにないな、とペシェは思った。

 借金といったって、たった300ベラだけれど、春に12歳になったばかりでお小遣いは月に10ベラの少年にとってはかなりの高額と呼べる。

 古い石畳の時計広場には、ペシェしかいなかった。大通りに近いところに綺麗な噴水広場があるのに、わざわざこんな裏手の広場に、真夏の昼間からやって来ようという物好きはいない。だからこそ、ひとりになるにはうってつけの場所ではあったわけだが。

 どうしたらいいんだろう、とペシェは空を見上げた。本当は下を向きたかったけれど、そういうときこそ上を見ろ、と誰かが言っていたのを思い出したから。

 吸込青の、空。自分も吸い込まれそうだ、と思った。

 けれども、その空は今日に限っては、吸い込まずに吐き出すことにしたらしい。

 空の奥の奥に、針の穴ほどの点が見えたと思ったら、どんどん、ぐんぐん、大きくなって、そして。

 

ズァ、と風の音をさせて、女の人がおりてきた。

 

 この人に、裁かれるのかもしれない。

 不意に、そんな考えが浮かんだ。風がペシェの前髪を持ち上げて、額をなでて、爽やかな香りが鼻をくすぐった。右肩からナナメにさげた帆布製の鞄の紐を、しらずしらずのうちに両手でぎゅっと握っていた。

 そのひとは、少し青みがかったように見える黒髪をもち、それは肩の上で跳ねていた。伏し目がちな横顔で、わずかに微笑み、膝上まである長いブーツに包まれた脚で、石畳の上におり立った。

動きのひとつひとつが、輝いて見えた。

「……ここは」

 横顔のまま、そのひとは言った。

 幻を見ているのだ。そう思った。だから、ペシェは安心して見惚れた。

「ここは、どこかな?」

「えっと……っ」

 どこ、という疑問形の言葉に、ペシェは咄嗟に反応してしまった。すぐに喉に詰まってしまったその声で、横顔が正面になった。驚きを示す、見開かれた目は、黒い瞳をしていた。ペシェがそこにいると、初めて気がついたみたいだった。

「あっ……」

 ひとりごとだったんだ、とペシェは勘違いを悟った。それと同時に、幻ではなかったんだ、とわかった。

「あらら。見られちゃったのかぁ」

「あのっ、だ、誰にも言わないから!」

「えぇ?」

 女の人が、笑った。急に、女の子、に近くなった。

「言ってもいいけど、きっと誰も信じな……っていうか、驚いてないね、少年」

「驚いてるよ!」

 充分、驚いている。ただ、その驚きをどう表現したらいいかわからないだけだ。

「それは失礼」

 面白そうに笑う顔は快活で、やはり幻とは思えなかった。思えなかったけれど、それでも、ペシェは、尋ねずにはいられなかった。

「……生きてる、よね?」

 女の人は、あっはは、と大きく笑ってから、三歩でペシェに近づいて、右手を差し出した。随分といろいろな物をぶら下げているらしい、ごついベルトがジャラ、と鳴る。

「生きてるよ」

 声は優しかった。けれども、力強かった。ペシェはちょっと、息を飲んだ。

「あたしは、モモ」

「……僕は、ペシェだ」

 ペシェは、差し出された手を握った。握手、というものをきちんとしたのは初めてのような気がした。モモの手は、ペシェが知っている女の人の手よりも硬い手だった。

「モモはどうして、空から……」

「え?んー、異世界人だから」

 明らかに適当言いました、という感じで、ペシェはムッとした。空からおりてきたときにはよくわからなかったけれど、こうして近くで見るとモモはまだ十代のようだった。少なくともペシェの母親よりはだいぶ若いはずで、ペシェを子ども扱いできるほどの大人には見えなかった。

「怒らないでよー、この説明が一番手っ取り早いの」

 モモが眉を下げた。あっつ、と額の汗を手の甲で拭うしぐさは、人間にしか見えない。

「ねえ、トクラナって知ってる?」

「へ?」

「ううん、なんでもない」

 真剣な面持ちで口に出されたのは不思議な単語で、さっぱりわからずペシェが首をかしげると、モモはカラリと笑って、さあて、と伸びをした。

「異世界人だからさっぱりわからないもんで、教えて欲しいんだけど。ここはどこ?」

「どこ、ってパニーだよ」

「パニー?それは都市の名前?それとも国?」

 ペシェはびっくりしてしまった。空からおりてきたことよりも、こんな質問を大真面目にしてくる方が驚きだ。

「街の名前だよ、テーブ国グーシュ州パニー」

「えっ、テーブ国?え、ねえ、もしかしてさ、隣国にキャンデーラ王国ってない?」

「キャンデーラ王国はまあ、近いと言えないことないけど、フェンスタ共和国を挟んでるから隣じゃないよ」

「フェンスタ共和国!」

 叫ぶように言ったかと思うと、モモはハーッ、と大きく息を吐いてがっくり肩を落とした。

「またかー。また第6球なのかー。なんでなのかなー……。あたし第130球に跳びたかったんだけどなー」

 モモの落胆のわけがわからなくて、ペシェはただぽかん、としてしまう。もしかして、結構変な人なのかもしれない、と思った。いや、登場の仕方からしてすでに変な人ではあるのだけれど。それでも不思議と、恐怖のようなものは感じなかった。

 しょーがないわとりあえず、とモモは呟いてベルトに括りつけてあるらしいポーチのようなものから、使い古したように見える皮の手帳を取り出した。

「あー、そうだった!ここじゃリストもこの形なんだった!移動は基本徒歩だし!デンキないし!もちろんモニター類もない!不便!面倒!!」

 大げさに嘆くと、手帳は開かずに、ペシェに向き直った。

「ペシェ、もう一つ教えてくれる?この辺に、宿泊施設はある?」

「お、大通りにホテルが何軒かあったと思うけど……」

「ありがと。結構大きな街なんだね、パニーって」

 さっきの落胆ぶりが嘘のように、モモはにっこりした。たぶん、ペシェに向けるための意図的な笑顔だ。そうはわかっていても、ちょっとドキリとしてしまう。さーて、と呟いてモモがきょろきょろした。

「ん、あっちかな。じゃあね、ありがとう、ペシェ。良い夏をね」

 片手をひらっと振って、モモは歩き出した。

 その背を、見た瞬間に。ペシェの胸に名案が閃いた。

「待って!」

 まるで叫ぶように呼び止めた。

「ん?」

 振り向いたモモの目が、ひどく静かで、ペシェは少し怯んだ。

「え、と……、モモは、このへん、初めてなんだろ?」

「うん、まあそうね」

「案内する人、いらない?」

 精一杯、平然とした顔を作っているつもりだった。普段から〝仕事の交渉〟をしているように見せなければ。

「僕を雇わない?安くしとくよ、モモは可愛いから」

「雇う、ねぇ……」

 モモは目を細めてペシェの全身をとっくり眺めた。

「見たところ、まだ学校に通ってる歳じゃないの?」

「今、夏休みなんだ。……夏休みは稼ぎ時なんだよ、ウチは裕福じゃないから、生きてくためには働かないと」

 必死に言い募るのをモモは眺め続けていたけれど、ふうん、と息を吐くように言ってからちょっと肩をすくめ、さっきしまったばかりの皮の手帳を取り出した。

「第6球……、テーブ国……。あ、あるじゃん。運がいいんだか悪いんだか。折角来たし一仕事してきますか」

 つぶやきつつ、モモはペンで手帳に何か書き入れ、よし手続き完了、と言ってペシェを見おろした。さっきまで対等に思えていた立ち位置が、はっきりと変わったのを感じた。

「雇ってもいいけど、あたし、無駄使いが嫌いなの。お値段次第ってとこね、おいくら?」

「300ベラ」

「えーっと、ベラはドル換算とだいたい同じだから……。んー、それは一日の金額?悪いけど、その金額じゃとても雇えないね、魔法でも使えるんならともかく」

「い、五日間の料金だよ!五日間で300ベラ!」

 慌てて適当に付け加える。五日間で300ベラ、というのが案内料として適切なのかどうかわからない。

「ふうん……。決して安くはないけど、ま、それならいっか。明日からで構わない?」

「も、もちろん」

「じゃあ、明日の朝8時、もう一度ここで」

 モモは簡潔に言って、あっさり背を向けた。今度こそ去って行く彼女を、ペシェはぼんやり見送って……、そして、小さくガッツポーズを取った。

 

※次回更新は11/1の予定です。