カグの樹の脚

つばめ綺譚社の紺堂カヤの小説『カグの樹の脚』を連載形式で順次公開してゆきます。

連載第十三回 樹上

 夕暮れ近くになってようやく静かになった小屋の中で、エルマーは大きく息をついた。

 夜明けとほぼ同時に眠りについたエルマーが次に目覚めたとき、いったいどうしたものだか、数名の若い娘が小屋の入り口で待ち構えており、昼食だと称してたくさんのパンや菓子を振舞われた。目を白黒させるエルマーに、娘たちは喧しくおしゃべりをし続け、今朝、そこの通りで妹さんに会ったわ、などと話した。妹、に一瞬ぴんと来なかったのをごまかすように、愚妹がお世話に、などとごにょごにょ言ったら、愚妹ですって古風ね真面目ね、ときゃあきゃあ盛り上がってしまったので閉口した。何がそんなに面白かったのか、エルマーにはさっぱりわからない。

 入れ替わり立ち代わりやってきていた娘たちがようやく去ってみると、すでに一日のほとんどが終わっていた。モモが帰ってくる気配はなく、エルマーはチッと舌打ちをした。娘たちに取り囲まれているところに姿を現さなかったのは幸いだと言えたが、あまり長く外をうろつくのは得策と思えなかった。この地方の現状は、当初考えていたよりもはるかに深刻であるようなのだ。エルマーとて、ただおろおろと娘たちの会話に付き合っていたわけではない。

「トルネリコを切り倒す、というのを本当にやるかはわからんが……」

 そういう噂が立つのも仕方がないと思えるような、荒っぽい衝突は日に日に増えているという。モモが議会派の者たちに接触しているとして、もしトルネリコの夜間警備に雇われていると知られれば、おそらくただでは帰してもらえないだろう。よそ者だ、という主張がどれほど役に立つものか。

 モモならばそんな局面もソツなく乗り切ってしまうのだろうか、と考えて、エルマーはきつく眉を寄せた。僻んでいるような、そんな考えを持った自分に、腹が立った。

誇りとコンプレックスは表裏一体なのだとわかった。ちょうどいいから表裏一体なまま、まとめて捨ててしまいたかった。モモにあそこまで自分のことを話す気になれたというのは、エルマー自身も不思議で、話せたからには、もう捨てきってしまえたのではないかと、少しばかり期待もしていたのだが。

「そう簡単にはいかない、か」

 サンスーシ社を出て、フック社に入り、義足ジャンパーのモモと組んで。何か変われたように錯覚していたが、変わったのはエルマーではなく環境だ。本気で自分を変えたいと思うなら、いっそ、両脚を切り落とす覚悟でなければならないのかもしれない。

「バカか、俺は」

 独り言とは思えないほどの声量で、エルマーは吐き捨てた。いくら自分の胸中でのことでも、軽率に引き合いに出すべき事柄ではない。

 目の前で両親を殺され、なおかつその犯人はわからず、さらに自分の両脚も失い、異世界を跳びまわる生活をすることになる……。それがいったいどういうことなのか、想像することも難しい。それを、理解しろ、ということになれば、到底不可能であるようにしか思われない。それと同時に、モモが理解を求めるはずがないとも思う。それなのに理解しようとするのは、理解できなければ自分のおさまりが悪いのだ、というただそれだけのことのような気がしてならなかった。

 奇妙な罪悪感。人はときおり、自分が知らない体験の痕を持っている者に対して、それを抱くことがある。

 エルマーは、ジャンパーになった経緯を話していたときのモモの、微笑んだ横顔を思った。世間話をするように、なんでもないことのように、軽々と唇を動かしていた。無理にそう振舞っているようには見えなかったものの、不自然さは拭えなかった。特に、脚を無意識に撫でていたときの、あの冷淡さが気になった。

 ガシガシ、と大きく髪をかき混ぜる。いったい何について思案していたのか、よくわからなくなってしまった。

 ただひとつ、昨夜言えばよかった、とエルマーが思うことは。

「俺の事情をおとなしく聞いてる場合じゃないだろ」

 エルマーよりもよほど複雑な事情を抱えておいて。それもまた、罪悪感と同じくらい奇妙な苛立ちだとはわかっていたが。それでも、これだけは言ってやろうと心に決める。この任務が、終わったら。そう、終わったら、だ。とにかく今はこの仕事を片付けなければと、エルマーは頭を切り替えるべく、深呼吸のようなものをしてみた。まさにそのときに。

「なんだあれは!!」

 叫びにも似た大声がして、エルマーは小屋を飛び出した。

 広場のほぼ中央に、トルネリコを見上げて指をさしている男がいた。ダガーだ。大声を出したのはどうやら彼のようで、何事かと人々がざわざわ集まりだしていた。指で示された方を見上げると。

「なっ!?」

 人が、両手を縛られ吊り上げられた状態で、トルネリコの幹に張り付けられていた。エルマーが詰めていた小屋の、軽く2倍はあろうかという高さに、女、だろう、小柄な影が、ひとつ。

 小柄な、影。

 エルマーは目をこらした。こらすまでもなく、本当は一瞬にしてわかったのだけれど。

 

 トルネリコに張り付けられていたのは、モモだった。

 

「どういうことだ!」

 叫んで、エルマーは目の前に立っていたダガーに掴みかかった。

「それはこちらが知りたい!!警備していたのではないのか!?」

「チィッ」

 はっきりと音をたててエルマーが舌打ちする。誰もここには来ていない、と言い切れないところが情けなくはあるが、こんな、人ひとりを吊るすような真似をされればさすがに気がつく。いつの間に、どうやって。わからぬことばかりだが、その中でもエルマーの頭の中をもっとも大きく占めている疑問は。

「なんでお前がそこにいるんだ!!」

 エルマーは、モモに向かって怒鳴った。顎を上げ、遠くを見るようにしていたモモは、その声で初めて眼下の状況に気がついたようにハッとして、そして、あろうことかにっこりと笑った。

「あ、エルマー!」

 手を振ろうとでもしたのだろうか。動かそうとして動くはずのない手首が、ロープに引っ張られてぐん、としなった。

「いてて。いやー、ごめーん。ちょっと油断したら捕まっちゃってー」

「捕まっちゃって、じゃないだろ!」

 なんでそう、しれっと呑気な返事ができるのか。この場の緊張にいちばんの当事者がいちばんそぐわぬ態度でいるとは。少なからず脱力感を覚えたが、ここでそれに引きずられるわけにはいかない。どう見ても緊急事態だ。

 それで、捕まったというのはどういうことだ、とエルマーが再び口を開こうとしたとき。

「見ろ!トルネリコに娘が!!」

 再び叫び声がした。ダガーのものではなく、広場に集まって騒ぐ住民のものでもない。

 黒を基調とした服に身を包んだ男たちが、集団で広場へ入ってきた。こいつらが「議会派」というやつか、と誰に尋ねるでもなくエルマーは判断する。彼らがやってきた途端に、広場の空気は凍りつき、人々の表情は険悪なものになったのだ。

「トルネリコは生贄を求める、非人道的な存在だ!」

「そのはずだ、人ではないのだからな!」

「やはり廃さねばならぬ!」

「いきなり何を!!」

「トルネリコは決してそのような要求はしない!」

「ではこれは何だ!!」

 油をまいてあったところに、火が放たれた……、というような、一瞬の喧騒の拡大だった。これでは暴力沙汰になるのも時間の問題であろうと思われた。

 トルネリコの要求だ、いや違う、などとただ押し問答をする人々を見て、エルマーはふと不思議に思った。その真偽を確かめたいのなら、トルネリコ本人……いや、人間ではないから本人というのはおかしいのかもしれないが、ともかく、トルネリコに直接尋ねれば済むのではないのか。

 助言すべきか、とエルマーが口を開きかけたとき。

「無駄だ」

 エルマーの考え読んだように、ダガーが吐き捨てた。

「議会派の連中に、トルネリコの声は聞こえない。いや、本当は逆なのだ。トルネリコの声が聞こえない者たちが、議会派になったのだ」

 聞こえないものを、実感できないものを、信じ続けるのは難しい。それが可能になるのは、トルネリコが支配者や先導者と呼ばれるものでなく信仰対象となったときだろう。

「そういう、ことか……」

「そういうことだ。お前たちがトルネリコの声を聞くことができたのは幸運と言うほかない。……俺にももう、聞こえないんだ」

「え?」

 エルマーがダガーの方へガバリと体を向けると、彼は素早くエルマーのそばを離れた。

「皆!落ち着け!」

ダガーさん……」

 広場の中央へ進み出て大声を出したダガーは、人々の顔を見回すと、苦しそうな表情でしかしはっきりと言った。

「もう、よそう。彼らには通じない。ここでこれ以上騒ぎになれば、怪我人も出るだろう。あの娘もどうなるかわからない。醜く争い、血を流すことをトルネリコは望まないだろう」

 ざわめきが、すうっと沈静化していった。何か言いたげではあるが、それでも反論と呼べるほどの発言はできない、というような、苦々しげな沈黙であった。ダガーはこの沈黙の瞬間を逃さなかった。議会派の男たちにキッと顔を向ける。

「あの娘と、トルネリコに危害を加えないことを約束しろ。そうすれば、行政からトルネリコの仕組みを廃することを、我らは飲む」

 ざわめきは瞬時に、勢いを取り戻した。まさに隙を突かれた、というやつである。

「そんな!」

ダガーさん!勝手ですよ、長老に断わりもなく!!」

 再沸騰した人々を眺めながら、エルマーは名実ともに外野の立ち位置で、なるほどそういう茶番か、と仕組みをだいたい把握した。ちら、とトルネリコに吊るされたモモに視線を向けると、予想していたようにモモもまたエルマーを見ていて、目があったところで瞳をくるりと動かして首をがくん、とさせた。肩をすくめたかったものと見える。

「それで、よいのだ」

 しわがれた声がして、少年に付き添われた長老が広場にやってきた。水を打ったようにぴしゃりと、人々が静まる。ダガーのときとは違う沈黙だ。畏敬の念がそうさせたことは明らかだった。

「トルネリコの声が聞こえぬ者は、これからどんどん増えてくることだろう。そんな状態では、トルネリコの声を指針にしていくことは難しい。それは皆、理解できるじゃろう?」

 人々は素直に、うなずいた。

「人の政は、人が執り行うべき。その主張の正当性は、わしも承知していたよ。けれど、トルネリコをいとおしむ気持ちが強すぎたがゆえに、そして変化を恐れたがために、皆に言葉を尽くすことを怠った。……それが、こんな荒っぽいことを招いてしまったのだな」

 長老は、微笑んでいるようにすら見える穏やかさで、議会派の男たちに語りかけた。彼らはきまり悪そうに視線を泳がせる。長老は、それを糾弾することはなく、視線を上に……、トルネリコに向けた。

「聞こうとしても聞こえぬ、ということは、聞くべきものは他にある、ということだろう、トルネリコよ」

 人々が一斉に、トルネリコに注目した。

 それは自然、モモに視線が集まることにもなった。エルマーは、息を飲んだ。

はたしてモモは、人々が半ば期待していたとおりに口を開いた。20歳そこそこの娘には見えぬ、母なるおおらかな微笑みで。

 初めから彼女こそが、トルネリコの代弁者であったかのように。

 

※次回更新は7/10予定です